高濱コラム 2005年10月号

旅先で、富士山を照らして、煌々と輝く中秋の名月をしみじみと見上げながら、少し前の花まるの授業を思い出していました。台風の進路次第では中止もあるかもしれぬという中、緊張した気持ちのまま授業を進め、風も弱まり晴れてきたなと思って、西側の窓を開けてみたときでした。そこには、数年来見たこともない、透明で美しいオレンジ色の空が広がっています。「うわあ、夕焼けがきれいだぞ、みんな」と声かけしたところ、数名が飛んで来て、皆でしばし見とれました。

そして、こんなとき、すぐにすっ飛んで来られるかどうかというのは、ちょっとした知能テストなどよりも、将来の幸せ度を計れるのではないかと、思いました。何となれば、常日頃家族でも色々な自然の風景などを、美しいと言い合っている環境や、豊かな想像力があるからこそ、「空がきれい」という同じ言葉を聞いたときに、反応できたのであろうからです。それは、とても重要な「生きる力」を身につけているということです。逆に言えば、「空がきれい?だからどうしたの」という、乾いた心では、反応できないのだろうし、どこまで行っても目前にある幸せを認知できないままでしょう。

そんなことを考えたのは、たまたま何人かの「幸せでない大人」からの相談を受けたばかりだったからかもしれません。共通するのは、「やらされ感」であり、「考える習慣のなさ」であり、「自分は人に比べて損をしているというような感性」です。もっとスタイルのいい遺伝子(親)が欲しかった、先生や上司に恵まれなかった、妻や夫がはずれだったというような他罰的な傾向も似ています。

教育にかかわる以上、子どもたちが将来自立し、幸せになって欲しいと願うのは、当たり前のことですが、その点で、私は今「遊び心」というものに注目しています。一見不遇な状況でも失敗しても「いつでもどこでも遊べる心」というのが第一義的意味ですが、その核心は、ジョークやおどけ方が上手というようなことではなく、「自分で決めるから面白い」ということを、生き方として知っているかどうかだと思っています。

子どもは遊びの天才とは、そのとおりで、何にもない川原でも、何にもない野原でも、雨天の宿の部屋でも、無尽蔵に遊びを考えつき、笑い転げ熱中し、満喫しています。ところがテレビなど、多くの「楽しませてくれるもの」を物色して育つからなのでしょうか、主体性をどこかで見失う人が増えたように思います。価値基準は自分で決めるものだし、「幸せは自分の心が決める」ものなのに、人が何をするかをいつも気にして、受験も就職も結婚も子育ても、外の価値(人がどう思うか)に合わせるように決定してしまう。だから、自信がない。ひどい状況では、愚痴や悪口が日常化したり、ブランドを手に入れることで安心したりするようになります。これでは幸せになれません。

小さいときの豊富な遊びの経験こそが、たくましい遊び心を育みます。やりすぎたり怪我をしたりケンカをしながら、遊び込み遊びつくす中から、「納得して自分で決めるから面白い」「つまらなかったらやめるか変えればいい」「笑いはいつも大事」「精一杯やりつくすとすっきりする。半端だとつまらない」「一人勝ちより共有できる仲間がいると喜びは倍増する」「自分の頭で考えるから面白い」といったことを言語でなく、生き方として身につけていきます。それは、一生を通じて大事な力です。受験でも、仕事でも、苦にするどころか、壁が厚いほど面白がって取り組む人になれるでしょう。

人がどう思うかは関係ない。「夕焼けが何てきれいなんだろう。私は今幸せだ」と自信を持って感じられる人に育てようではありませんか。

花まる学習会代表 高濱正伸