『よかったね』2005年11月号
先日、私の誕生日に電話で妹と話していると、二歳半になった甥っ子が、どうしても喋りたいと電話口に出ました。「ゆみねえちゃんか?お祝いしてんのか?」…なんとあっぱれな喋りっぷり。(昔は分からなかった、「子どもの関西弁って可愛いよね」の意味が今は分かる気がします。)結局彼は、『はよお風呂に入ってき!』と母親に叱られながらも何度も電話口に登場し、わたしたち姉妹の会話に割り込みました。その年齢にして既に、コミュニケーションをとることに対する貪欲な関西魂。
お盆に実家に帰る途中、京都の地下鉄での出来事。まばらに空いていた空席には、二人が並んで座れるスペースがなく、私ひとりが座ることに。主人と二人連れ だということに気づいた方が、「あら、じゃあどうぞ」ともう一つ分の席を空けてくれました。するとそれを見ていた左隣のおばさんが、「あらぁよかったねえ」。前に座った人達までもが、にっこりと笑いかけてきます。こころにぽっと明かりがともったような、幸せな気持ちになりました。
「よかったね」を共有できる感受性。そのこころの余裕。人に対する壁のない感覚。まっすぐに伸ばしてつなごうとする手のような純真無垢さで、心の扉を開けてしまうのです。
「オレオレ詐欺にひっかからない」というのも頷ける、そのコミュニケーション能力の高さ。人を笑わすこと、その一点に、とてつもないパワーを燃やすこの人種特有の血が、もしかしたらそれを生み出すのかもしれません。
相手の間を読むことができる感性。飾らない、バカになれる、自分を笑いの対象にもできる自己開示力。柔軟な発想の転換力、観察力、と、生きていくために大切なエッセンスがたくさん必要とされる社会にいれば、おのずとコミュニケーション能力が磨かれるのでしょう。
遠くに来たからこそ改めて再認識した、言葉の持つ力とそのパワー。そして、笑わせたいと思うことは、相手を幸せにしたいと思うこととイコールです。コミュニケーション能力の要は、意外とそんなところに隠れているのではないでしょうか。