Rinコラム 『わざと、聞こえる声で。』

『わざと、聞こえる声で。』2006年2月号

それは、12月最後の授業の日のことでした。
「お兄ちゃんのときは、こんなことなかったんですよねえ。もうどうしたらいいか…」
突然行きたくないと言い出した、と困り顔のお母さんが、寒風吹きすさぶ中、弟を引き連れてやってきたのは、もう授業が始まって半分以上が過ぎていました。
私が出て行っても、そっぽを向いた彼は、頑として動こうとしません。
「つらいんだ。何がつらいのかなあ?」「…」
「先生、せっかくH君のために漢字の宿題、用意したのになあ。残念だなあ、今日渡そうと思ってたのになあ…」
「…」彼の表情が少しだけ動き、目が合いました。
「じゃあこれを、先生と教室でやってみる?」
「ホラ、先生がせっかく用意してくださったんだから、早く入りなさい、お母さん、もう帰るからね!早く先生といっしょに行ってきなさい!」
どうしても教室に入ってほしいお母さんの言葉に、はっと現実に引き戻されたかのように、彼はイヤイヤ、という風に首を振り、目に涙までため始めました。

聞けば、学校は楽しく行っているとのこと。このままでは、きっと動かないのは目に見えていましたが、ここで帰らせてはいけないなと直観した私は、それならば、とある作戦に出ました。
わざと本人にも聞こえる声で、
「お母さん、今日はこの後何時までかかっても大丈夫ですかねえ?このあと別のクラスがもうすぐ始まるから、そうしたら最初からいっしょにやれますもんね。」
「いいんですか?」とお母さん。
「ええ、大丈夫ですよ。このクラスがもう少しかかるので、私は教室に入りますけど、お母さんが大丈夫なら、いっしょに外で待っていてあげてください。」

その少し後、教室の窓からお兄ちゃんの姿を見つめる小さな頭が窓からのぞいたかと思うと、5分後には教室に入って、後ろの席にちょこんと座るH君の姿がありました。

4月からではなく、途中入会だったH君は、きっと、周りのみんなと比べてしまったりして、悲しい気持ちになったときがあったのでしょう。それから、宿題のサボテンをちょっとためてしまって、行きたくないなあという気持ちもあったのでしょう。

問題の最初なんて、ほんの少しのきっかけです。今回、お母さんが「絶対に行かなくては駄目」と、彼を連れてきてくれたこと。実はとても 大切なことです。「今日だけね。」「行きたくないって言うものですから」と、なんとも簡単に子どもに負けてしまう例にあったことがありますが、この先も同 じような壁にぶつかったとき、その子がどうするかは、想像に難くないと思います。将来を見据えて、今目の前の大変さに流されずに、「そんなことは許されな い」とオトナが壁になってあげなければならないときだからです。

周りの子のことをよく見ていて、感受性の強い子もいれば、心配性の子も、気にしないでマイペースに進む子もいる。性格だって、子どもの 数だけ違っていて十人十色。だからお母さん、「お兄ちゃんのときは…」なんて、絶対言ってあげないで。子どもは親の評価に敏感。耳をダンボにして、きちん と聞いているのです。
わたしたちが教室でどんなに子どもたちに自信をつけさせてあげても、「妹と違ってあの子は…」なんていう一言で、芽が出た意欲はぺしゃんこになってしまいます。
H君に必要だったのは、「この子は頑張り屋さんですから」というような、お母さんの励ましの言葉だったかもしれません。私が、わざと、聞こえる声で言ったように。