『主体的に書くということ』2007年10月号
伝えたいことがあって、書く。表現の一つとして、書く。頭や心を整理するために、書く。文字にして残すことで情報を正しく伝えるために、書く。将来の自分のために、書き残す。手紙の返事を、書く。メールの返信を、書く。報告するために、書く。日常で書く場面というのは本当にたくさんあります。
物を書くことは五本指に入るくらいに好きな私も、やる気がおこらないときがあります。それは、「must」になった瞬間です。やらねば ならないもの、になったとき、モチベーションが下がるのは、誰しも経験があるのではないでしょうか。「よし、自分のためにこれは書き残しておこう」と思って書いたものと、「出しなさいと言われたものだから書いた」レポートとでは、書いている時点での集中度、意識のレベルがまるで違うのです。
私は幼い頃、人からやりなさいといわれたことは素直にやりたいと思えない、という天邪鬼な子どもでした。大人になってからも与えられた課題に、自分にとっての意味を見出すことにまず心理的なパワーを使わねばならず苦労しました。やりましょう、ハイ!という風にはいかず、立ち止まってしまうわけです。今振り返ればそれは、「自分がやりたいと思うことかどうか」と言う気持ちに物凄く忠実で正直であったからであり、悪いことではないと思えるのですが。
大人にとっては、仕事。どんな業務にも、意味や目的、面白みややりがいを見つけ出すことができるかどうかというのは、やるなら「must」ではなく 「want to」で、という視点でしょう。ちなみに、世の中で最も主体的な仕事をしているのは、芸術家だと思います。なぜなら、何かをやらされているアーティストなどいないから。
作文も学習も同じこと。「書きなさいといわれたし、なんか上手な作文書かなきゃいけないし」という気持ちで書くときことほどつまらないことはありません。そういう子達は総じて、とても気持ちの優しいいい子なのですが、書く喜び(want to)をまだ知らないのです。
「上手な作文」って何でしょう。それは体裁ではないのです。拙くても人の心を動かす文章はいつでも、自分のことばがあふれ出ている、つぶやきのようなもの。
子どもたちに伝えたいのは、書く楽しみです。書かなければならないものではなく、書きたいものとなったとき、子どもたちの創造の羽がはばたき、自由自在に書く力をつかんでいくのだと思います。
そのためにおうちの方にお願いしたいこと。子どもたちの、はじめて作文には笑顔だった保護者の方も、何枚か書くうちつい「もっと他になんかあるでしょ」「○○ちゃんはもっと書いてたじゃない」というNGワードを発してしまいがちです。お父さんお母さんの言葉に敏感な、いい子たちが、ありきたり作文の呪縛 にとらわれてしまわないように、そこはそっと見守ってあげてほしいものです。