Rinコラム 『自分にある種』

『自分にある種』2010年6月号

近く引越しをすることに決めたので、本棚の整理をはじめました。整理するはずが、ふと手にとってそのまま読みふけっていると、ある文章に目がとまりました。
オーストラリアの原住民アボリジニは、才能(タレント)が自分の名前になっていたそうです。たとえば、“星を読む男”“風のにおいをかぐ男”のように。そして、お互いのタレントを交換して、グループの中に足りないタレントがないようになっていたそうです。タレントというのは、本来そういうもので、自分の才能を知るということは、自分自身を見つけることとも言えるのでしょう。

親が子の才能を見出してあげたり、自分の中にあるタレントに目覚めたりすることは、人間にとって、この上ない幸せです。でももしも、「この子にこんな風になってもらいたい」という願望から、自分の子供にないタレントなのに期待したりするならばそれは、悲劇の始まりです。

たとえば、同じ植物の種でも、土に植えて水をあげてみれば、トウモロコシもいればキュウリもナスも、ひまわりもいる。自分はトウモロコシとして生まれたのに、隣のナスを見て、「あ、ナスってかっこいいな。俺もナスに生まれたかった」と、自分がトウモロコシであることも忘れて、ナスの真似をする。そうではなくて、トウモロコシの人生を謳歌することこそが本来の使命で、本当のしあわせのはずです。

あるお母さんが、「もっと友達と遊んでほしいのに、ひとりで本ばかり読んで困った子ね、これだと将来が心配だわ」と自分の子供に対して思っているとします。この場合、それを気にしているのは、お母さんだけで、本人はまったく気にしていないとしたら、どういうことが起きるでしょうか。「どうしてもっと外に出て友達と遊ばないの」という母の気持ちは、「今のままの私では愛してもらえない、私らしくあることは駄目なんだ」という否定のメッセージとして子供たちの上に降り積もり続けます。子供たちにとって親からの否定はすなわち、自己肯定感の喪失につながります。
子供たちが、何かに熱中するとき、欲するものに忠実になっているときは、ものすごい集中力を発揮しますし、その際たるものが遊びです。彼らは、今、自分に必要なものを体とこころに取り入れているのです。この子の場合、読書を楽しみきっているのです。今必要な栄養だから。そして、もう十分だ、と思ったらその次に必要なものを選んでまた取り込んでいくでしょう。種が芽を出し成長するのに必要なのは、その種の持つタレントを信じて、見守ってあげることです。トウモロコシじゃなくて、ナスがよかったからといって、せっかく芽が出たところを、引っこ抜いたりしないように。

新しい引越し先には、小さいけれど庭があって、そこに何を植えようか、と日々考えています。子どもたちをサマースクールに連れて行ったときと同じように、子犬だったころの愛犬をしつけたときと同じように、きっと成長する彼らへの、発見と驚きに満ちているのだろうなあと、今から楽しみです。植物に詳しい方がいらしたら、相談させてください。みなさんの日々も、驚きと発見に満ちていますように!では六月も、よろしくお願いいたします。