というのは、小学生時代は、なぞぺーなどの早見えのセンスはあるものの、言語分野、特に「相手にわかるように説明する」という課題が非常に苦手で、いわゆるKY発言もたびたびでした。要するに「自分としては見えている」のだけれど「他者性がない=幼児性が強い」という状態。素質が無いのでもなく人柄が悪いのでもなく、落ち着いて成長を待つしかないのですが、この段階で周りの早熟な子と比較して「先生、いつになったら変わるんですか」とあせるお母さんも出るものです。このお母さんの特長は、どんなときにも大らかで笑顔を失わなかったことです。
思い出すのは2003年の沖縄伊江島のサマースクール。キャンプファイヤーをやる夜になりました。前の年は浜辺でやったのですが、大潮の満潮で今年は無理だとわかっていました。しかし、前年の予定表から作り変えたときに削除し忘れ予定に入ってしまったのです。満潮でできないと言うと、子どもたちはやろうやろうの大合唱。仕方なく島の裏手の人がほとんど来ない岩場の駐車場に移動してやることにしました。
ところが、そこで流木を拾って準備を始めたら、どこから現れたかガラの悪いおっさんが「こんなとこで火つけていいのか、アスファルトが溶けるだろうが!」と怒鳴りこんできたのです。「コンクリですから」といなして始めようとすると、「役場の許可は取ってるのか。ここは公共の場だぞ!」とその筋の人のような迫力ある言い方です。確かにそうだなと弱気になったところに、追い打ちで「人の上に立つ者がそれでいいのか!」との一言が突き刺さりました。子どものためという理屈で、私は判断を誤ったのです。
それでも何とか2曲だけと踊ったチェッコリとアブラハムの凍りついていたこと。硬直して動かない子もいました。何筋もジョウロのように水のもれるビニール袋で沈火し、アチアチと火傷しながら燃え残りを片づけ、バスに乗り込んでの帰り道。皆の心が沈み、私の自責の念も感じてくれたのでしょう、ただ沈黙が支配していました。そのときK君が言ったのです。「やーいやーい、高濱先生怒られてやんの!」今思えば、当時は6歳下の弟にお母さんがかかりきりで寂しい面もあったのかもしれませんが、ここでその言葉かよと感じた驚きは忘れられません。そんな子が、見違えるように成長したのです。
手紙の二枚目には「うれしかったこと」として二つのエピソードが書いてありました。一つは中高を通して最後のお弁当の日に「6年間ありがとう」と言われたこと。もうひとつは大学入学案内と一緒に通帳を渡され「入学金にでも使って」と言われたこと。バイトでコツコツためた30万円が入っていたそうです。「使えませんよね」とありました。そして「うちの子は『自分で食べていける人間』に育ちつつあるように感じます」とありました。沖へ沖へと船が遠ざかっていくイメージが、頭に浮かびました。
花まる学習会代表 高濱正伸