『にっぽん風土記 -松戸-』
こんにちは。今回が第二回目となる「にっぽん風土記」。今回は千葉県松戸市を歩きました。ちなみにこのコーナーのタイトルですが、読み方は「にっぽんふどき」です。「風土記(ふどき)」とは、奈良時代(今から1300年くらい昔)につくられた書物で、当時の日本各地の地理を紹介したものです。受験にも役立つような視点を入れて、少し大げさですが、現代の風土記を目指してこのコーナーを作っていきたいと考えています。
【「最後の将軍」の弟】
今回の松戸散歩は、江戸時代末期から明治時代という激動の時代を生きた、徳川昭武(とくがわ・あきたけ)という人物のことを考えながら歩きました。松戸は、徳川昭武ゆかりの地だからです。
彼が生まれた江戸時代、日本を治めていたのは武士、侍です。その武士のトップは、征夷大将軍と呼ばれます(いわゆる将軍ですね)。これはいわばお殿様の中のお殿様です。その将軍の中でも、「最後の将軍」と呼ばれるのが、今から140年ほど前に活躍した徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)という人物です。文字通り、日本史上最後の将軍である彼は、史上まれに見る劇的な人生を送りました。非常に優れた人物でもあるため、日本史好きの間での人気も高く、大河ドラマの主人公として取り上げられたこともあります。今回取り上げる徳川昭武という人物は、「最後の将軍」徳川慶喜の弟です。
徳川昭武は1853年生まれ。皆さんは、この年がどんな年だったか知っていますか?ひょっとしたら、日本史上、最も重要といってもいいくらい大きな出来事のあった年ですから是非覚えておいてください。そう、1853年はペリー来航の年です(翌年に日米和親条約、5年後に日米修好通商条約。最重要項目ですから覚えておきましょう。また、受験生は、年・条約名・それぞれの条約で開港した都市名をセットで覚えることも必須です)。この年を境にして、日本は明治維新、そして近代化に向けて大きく動き出すことになります。そんな記念すべき年に、彼は生まれました。兄の慶喜とは16歳違い。彼が物心ついた頃には、兄の慶喜はすでに優秀な将軍候補として世に知られていました(慶喜が将軍になったのは、昭武が13歳の時、西暦1867年。つまり明治維新の一年前です)。兄である慶喜は、「最後の将軍」として非常に劇的な一生を送りました。しかし弟の昭武も、あまり有名ではありませんが、兄に負けないくらい劇的な一生を送った人物です。
【プリンス・トクガワ】
すでに書いたとおり、兄の慶喜が将軍に就任した時、昭武は13歳。1867年のことです。そして次の将軍には、昭武が内定していました。
同じ年、フランスのパリで万国博覧会(万博)が開催され、日本政府である徳川幕府は、10万点を越す工芸品・美術品等を万博に出品しました。その際、徳川幕府は、フランス皇帝ナポレオン三世のもとへ万博訪問団を派遣します。これが、わが国日本の国際舞台への本格的デビューです。そして、その訪問団の代表に選ばれたのが、わずか13歳の昭武でした。将軍の弟として、そして次期将軍として、彼は訪問団代表を務めたのです。フランス皇帝を訪問することとともに、フランス語や法律、軍事について学ぶこと、つまり、将来の将軍として海外の進んだ知識を身に付けることも大きな目的でした。訪問団代表であり、留学生でもあったわけです。海を渡った彼は、フランスだけでなくヨーロッパ各国を歴訪し、行く先々で「プリンス・トクガワ(徳川家の王子)」として注目を集めます。また、その節度ある態度、凛とした立ち居振る舞いは多くの喝采を浴びました。
考えてみてください。今、この文章を読んでいる皆さんとあまり年の変わらない一人の少年が、大きな大きな時代の変わり目に、日本の国際デビューという重い役目を背負ってヨーロッパへと渡ったのです。そして、見事にその役目を果たしました。この後、フランスを中心にヨーロッパで日本文化の大流行、「ジャポニズム」が起こります。今でもフランスを中心に、欧米で日本のアニメや漫画が高い支持を集めていますが、その源流の一つがこのジャポニズムにあるとも言われています。そして、そのジャポニズムのきっかけを作ったのが、13歳のプリンス、徳川昭武率いる万博訪問団だったのです。
【急転回】
しかし、ヨーロッパ滞在中の彼のもとに、日本からの大変なニュースが飛び込んできます。
10月15日、天皇を中心とする革命勢力に迫られ、兄である将軍慶喜が政治権力を失ってしまったのです(これを大政奉還といいます。将軍慶喜が政治権力を天皇に返してしまいました)。しばらくはヨーロッパで様子を見守っていた昭武ですが、その後立て続けに飛び込んでくる情報は耳を疑うものばかり。年が明けた1868年1月3日には、革命軍との戦い(鳥羽伏見の戦い)で慶喜の軍は大敗を喫し、慶喜は江戸城を出て謹慎生活に入ってしまいます。
つまり、昭武がヨーロッパに滞在している間に、日本では徳川幕府が無くなってしまったのです(これが明治維新です)。本来であれば自分が次期将軍になるはずだった徳川幕府。それが革命勢力によって倒されてしまいました。日本では年号が明治に変わり、革命勢力が新たに明治政府を作りました。短期間のうちに、日本の政治のしくみがガラッと変わってしまったのです。そして、ヨーロッパにいる昭武のもとには明治政府からの帰国命令が。昭武は、失意と不安を抱えたまま、日本へ帰国することになりました。
【戸定邸】
その後の歴史の流れは本当に急でした。徳川幕府に味方する人たちはことごとく滅ぼされ(このときの戦いを戊辰戦争といいます)、明治政府の中での仲間割れに端を発した西南戦争(明治10年に西郷隆盛が起こした内乱です。戊辰戦争とともに必ず覚えましょう)が起こります。このような混乱と興奮の中で、日本は「明治」という新しい時代に移行していきます。そして昭武は、明治政府に反抗するのではなく、従うことで生き残る道を選びました。
時は流れ、明治16年、昭武31歳のとき、彼は松戸の地に別荘を築きます。彼が選んだのは、戸定が丘。松戸駅の南に広がる丘陵です。現在、一帯は戸定が丘歴史公園と呼ばれていて、彼の別荘「戸定邸(とじょうてい)」が当時のまま残されています。建物は木造二階建て。いたるところに、徳川家の家紋である葵(あおい)の葉をあしらった文様が目立たないように散りばめられています。広い庭園からは、季節によっては富士山も見えるそうです。
戸定邸での昭武は、時折遊びに来る兄慶喜とともに、趣味の写真撮影に興じるなど、悠々自適の生活を送りました。今でも、戸定邸には彼の撮った写真が数多く残されていて、隣接する資料館に展示されています。昭武の撮った写真には子供を被写体にしたものが多く、彼の子供好きを彷彿とさせます。そしてそのどれもが、彼が少年時代とは打って変わってゆったりとした時間の中にあったことを感じさせるものばかりで、見ているこちらも本当に心が和み、つい頬がゆるみます。
戸定邸の中でも最も眺めのよい部屋は彼の書斎でした。部屋には、彼が使った机が今でも当時のままに置かれています。彼はこの部屋で机に向かい、熱心にフランス語の勉強を続けたそうです。将軍の弟として渡ったフランス。そして未来の将軍を夢見て学んだフランス語。フランス滞在中の彼には、きっと将軍になってからの構想も、夢も、希望もあったはずです。夢破れて帰国した後、この部屋で机に向かっていた彼は、どんな気持ちでフランス語の勉強を続けたのでしょう。「もし自分が将軍になっていたら・・」「革命さえ起きなければ・・」と考えることもあったでしょうか。将軍になっていたかもしれない自分が、本来は敵であるはずの明治政府のもとで我慢して生き続けている・・。その悔しさでついペンが止まる日もあったでしょうか。それとも、時代の流れを受け入れて、さばさばとした気持ちであったのでしょうか。あるいは、新しい時代を生き抜くために前向きな気持ちで机に向かっていたのでしょうか。残された数多くののどかな写真は、一体彼のどんな気持ち、どんな思いの現れだったのでしょうか。ひょっとしたら、悔しさや失意を忘れ、自分を慰めるためのものだったのかもしれません。
戸定邸を訪れて、きっと昭武も眺めたであろう景色を見ながら、彼も吹かれたであろう風に吹かれながら、「将軍になっていたかもしれない男」の気持ちに思いをめぐらせてみるのもまた一興というものでしょう。
今回の「にっぽん風土記」はここまで。帰りは江戸川の土手を歩きながら駅まで戻ります。戸定邸でゆっくりしたので、日もだいぶ傾いてきました。川面に映える綺麗な夕日を横目に見ながらてくてく歩き、次はどこを巡ろうかと考えるのでした・・。
1.徳川家は代々、今の静岡県の伊豆地方で、ある食用の植物の生産を奨励していました。それは、その植物の葉が、徳川家の家紋である葵の葉とよく似ていたからです。その植物は今、伊豆地方の名産品となっています。では、その植物とは何でしょうか?
A.れんこん B.わさび C.みょうが D.よもぎ
2.1867年にフランスのパリで行なわれた万博。ヨーロッパの人々に最も人気の高かった日本の出し物は何だったでしょうか?
A.日本刀 B.鎧兜 C.ふんどし D.芸者さん
3.最後の将軍徳川慶喜は、写真撮影のほかにも当時としてはとても珍しい趣味を持っていました。それは何でしょうか?
A.テニス B.ジャム作り C.サイクリング D.スキー
◆応募資格:スクールFC・西郡学習道場・個別会員および会員兄弟・保護者
◆応募方法:「問題番号と答、教室、学年、氏名」をお書きになり、「歴史散策挑戦状係行」
と明記の上、メールまたはFAXでお送りください。なお、FCだよりにて当
選者の発表を行いますので、匿名を希望される方はその旨をお書きください。
◆応募先:Mail address :t-kanou@hanamarugroup.jp
FAX :048-835-5877(お間違えないように)
◆応募締め切り:2011年 6月 10日(金)21:00
◆当選発表:FCだより8月号にて発表いたします