『にっぽん風土記 -静岡-』
こんにちは。今回の「にっぽん風土記」で訪れたのは静岡県です。
【日本一のお茶畑】
今回の最初の目的地は静岡県の牧之原(まきのはら)市。静岡市内でレンタカーを借り、一路南西へ。一時間半弱で牧之原市に到着します。その牧之原市の北西部に位置する牧ノ原は、日本最大のお茶畑が広がる台地です。台地全体が、本当に茶畑一色。壮観です。ちなみに、市の名前は牧之原市なのですが、地名としては一般的に牧ノ原の文字が使われます。お茶の生産地としては、牧ノ原で覚えておいてください。
さて、お茶摘みのベストシーズンは八十八夜。童謡(どうよう)の『茶摘み(ちゃつみ)』にも「♪夏も近づく八十八夜・・・」と歌われています。八十八夜とは、立春から数えて八十八日目。今年の八十八夜は5月2日です(この日に摘んだお茶を飲むと長生きできるといわれています)。訪れた当日は5月1日で八十八夜の一日前。雨模様だったのですが、お茶の葉の緑が雨によってさらにみずみずしく輝いていて、まさに夏に向かって着実に季節がすすんでいるのだなあ、ということを実感させられました。
さて、お茶畑を実際に見てみて気づいたことが一つ。どの畑にも、大きな扇風機のようなものがたくさん取り付けられています。お茶の加工工場でそのことについて聞いてみると、その扇風機は「防霜(ぼうそう)ファン」という名称なのだそうです。つまり、霜を防ぐ扇風機ということですね。この季節は、畑の湿った空気が夜の間に冷やされて畑の下方にたまり、それによって遅霜(おそじも)が発生してお茶の葉が痛んでしまう危険があるとのこと。そのため、扇風機をかけて畑の空気をかき混ぜ、霜の発生を防いでいるのだそうです。ちなみに工場の人の話では防霜ファン1つが約50万円。かなり高価なものだということがわかります。毎晩、明け方になると家庭用扇風機の「強」くらいの勢いで防霜ファンが一斉に回り始めるのだそうです。
【牧ノ原の開拓】
ところで、そもそもここに日本一のお茶畑がつくられたのにはどんな経緯があるのでしょうか。
実は、ここ牧ノ原のお茶畑は、先月の「にっぽん風土記」でも扱った明治維新と大きな関わりがあります。明治維新とは、江戸時代から明治時代への転換点。今まで日本の政府であった江戸幕府が倒されてなくなってしまったこと、そしてその後新しい政府が発足したこと、その一連の出来事をさしています。江戸幕府は日本の政府でしたから、当然たくさんの官僚や役人(幕府に仕える家臣なので幕臣と呼ばれます)を抱えていました。江戸幕府が倒された後、その代表であった将軍・徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)と幕臣たちは、江戸から静岡の地に移り住みます。でも、江戸幕府は倒されてしまったので、もう将軍でもないし、幕臣でもありません。一介の大名・徳川慶喜とその家臣として移り住んだのです。将軍であった当時の徳川家と幕臣の領地からは年間700万石のお米がとれました(1石=1000合で、江戸時代の人が一日に食べるお米の平均量はおよそ5合。つまり、一石は一人の人が約200日暮らしていけるだけのお米の量です。700万石というのがどれくらい膨大な量なのかがわかりますね!なお、次に豊かな領地を持っていたのは加賀の前田家で年間103万石、3位は薩摩の島津家で年間77万石のお米がとれました。このように、領地からどれだけのお米が取れるのか、ということが当時の大名の優劣を示すバロメーターでした)。とれたお米をお金に換えて、政府を運営するための予算にしたり、家来へのお給料や自分たちの生活費にしていたわけです。しかし、一介の大名として静岡に移ってからは、その収入は年間70万石まで減らされてしまいます。収入は10分の1に減ったのに、仕える家来の数はほとんど変わらなかったため、一人ひとりのお給料や生活費は当然少なくなります。生活できなくなってしまう人もたくさんいました。そこで、それらの人々の収入源として考えられたのが、お茶でした。お茶を大々的に栽培して、商品として販売するというわけです。その栽培場所が牧ノ原。もともと不毛の地であった台地を、刀を鍬(くわ)に持ち替えた旧幕臣たちが、地元の農民と協力して必死になって開拓し、輝くような一面のお茶畑へと変身させました。これが、牧ノ原に日本一のお茶畑がつくられたきっかけなのです。ちなみに、牧ノ原の開拓とお茶の栽培を奨励したのは勝海舟(かつ・かいしゅう)という人物。あの坂本龍馬(さかもと・りょうま)の師匠で、明治維新の立役者の一人です。さすがに目の付け所が違いますね。
【田沼意次】
牧ノ原を後にして、海に向かって南下すると、相良(さがら)の街に出ます。江戸時代、街の中心部には相良城というお城がありました。相良藩二万石、有名な田沼意次(たぬま・おきつぐ)の城下町です。かつてのお城の敷地は現在高校になっていて、隣には歴史資料館が建てられています。
資料館の内部には、相良藩に関する資料とともに、初代藩主となった田沼意次に関する資料が数多く収められています。田沼意次は、江戸時代後期に老中(ろうじゅう)という役職を務めた人物です。老中とは、江戸幕府において将軍の次に位置する役職。今で言えば内閣総理大臣です。田沼意次は、株仲間(今で言えば商工会議所のようなものです)を奨励して商業と経済の活性化を図ったり、千葉県の印旛沼(いんばぬま)での新田開発や蝦夷地(えぞち=今の北海道)の開発を積極的におし進めるなど、先進的な政策を次々に行った優秀な政治家として今でこそ高く評価されていますが、つい十年位前までは、日本の歴史上でも名うての悪人として知られていました。「わいろ政治」を行ったとされていたからです。つまり、自分にわいろを納めた者を優遇し、そうでない者はしりぞけたというのです。しかし、近年の研究で、「わいろ政治」については事実でない部分が大きいということが明らかになってきて、今では名誉を回復しています。
【意次の香時計】
意次は、自分の領地である相良の発展にも大いに尽くしました。また、心の広い人物でもあったようで、その人柄は今でも相良で慕われています。資料館にはそれを示すような展示品もありました。例えば香時計(こうどけい)。この時計には、次のようなエピソードが伝わっています。ある日意次のもとへ、農民から「暮らしが苦しいので何とかしてほしい」という直訴が届きました。直訴というのは、農民などがお殿様に直接意見を言ったり、訴えを起こすことです。江戸時代当時、直訴は厳しく禁じられていました。ひどいときには、死刑になることさえあったのです。意次に直訴した農民たちは、厳しく罰せられることを覚悟した上で行動に移したわけです。意次は、そのような農民たちを罰するどころか、かえってその勇気に感心し、ご褒美としてこの香時計を与えたのだそうです。
さて、この香時計ですが、どんな仕組みで時間を計るのでしょうか。資料館の係の方に伺ってみると、その仕組みは非常に明快。ひも状に長く長く造られたお香(導火線みたいなイメージです)が、くねくねと箱の中に納められています。その端っこに火を付け、燃え進んだ長さで時間を計るわけです。どちらかというと、時計よりもストップウォッチに近いイメージですね。
【浜岡原子力発電所】
田沼意次の人柄に触れたところで、今度は南西に向かいます。遠州灘(えんしゅうなだ=静岡県西部から愛知県東部に広がる海の名前です)に面した御前崎(おまえざき)の海岸沿いに、大きな施設が見えてきました。浜岡原子力発電所です。
東日本大震災以降、急速に注目が高まった原子力発電所(以下、原発)。震災で被害にあった福島第一原発ではメルトダウンという最悪の事態にいたり、今でも予断を許さない状況が続いています。
福島原発の甚大な被害を受けて、ここ浜岡原発でも、5月の初めに菅総理大臣によって操業停止の指示が出されました。その後、浜岡原発を実際に管理・運営する中部電力によって操業停止が実行に移されましたが、私が訪れた時は菅総理大臣が停止指示を出す数日前。やはり原発への関心が高まっていたのか、大勢の見学者が訪れていました。
浜岡原発の隣には「原子力館」という見学施設が建てられていて、原発の仕組みや安全対策などの説明がされていました。原発の仕組みについてここでは詳しくは書きませんが、とても簡単に言ってしまえば、まず「原子」という目に見えないくらい小さなものの力・性質を利用して熱を起こしてお湯を沸かします。そしてその際に発生する水蒸気の力でタービン(羽根車)を回し、電気を発生させるという仕組みです。つまり、原子力発電も火力発電も、熱を電気に変えるという点においては、何一つ変わらないということです。
原子力館での説明で最も多くの関心を集めていたのは、浜岡原発の地震・津波対策に関するものでした。見学者の多くが地震・津波対策の解説パネルや展示の前で足を止めてそれらを熱心に見つめており、先日の東日本大震災によって地震や津波に対する危機感が高まっていることが見て取れました。原発側の説明によると、原発と海の間には砂丘があるため、それが防波堤になって津波を防いでくれるとのこと。また、原発は地下の岩盤に柱を直接打ち込んで建てられているため、大地震でも安心。原発の「安全性」をアピールする説明が、これでもかとされていました。しかし、よく読むと頼みの綱である砂丘の高さは10~15メートル。今回の東日本大震災で発生した津波の最大の高さはおよそ39メートル。もちろん、浜岡原発のある静岡県と東北地方とは地形などの条件が異なるため単純に比較することはできませんが、数字だけ見ると簡単に越えられてしまう高さです。また、浜岡原発が建つ駿河湾沿岸は、近い将来起こるといわれている「東海地震」の想定震源地のど真ん中。(本当に大丈夫なんだろうか・・・?)という不安は正直言ってぬぐえませんでした。
原子力館には展望台が備えられていて、少し離れたところから原発の全景を見渡すことができます。ささやかな砂丘に守られて建つ浜岡原発は、黒々と広がる遠州灘を前に、とても弱々しく、はかなげに見えました。展望台には多くの見学者がいましたが、今回の震災と福島の惨状を思い出し、強い不安と恐怖を抱いたことは間違いないでしょう。
原発を後にして浜辺に向かうと、いつの間にか雨はやみ、夕闇の中で雲が様々な表情を見せていました。聞こえるのは海鳴りだけで、本当に静かで、美しい景色です。この景色を守るために、悲しい風景にしてしまわないために、今を生きる我々一人ひとりが真剣に考え、行動していかねばならないはず。そう考えながら私は、雨上がりの夜空を家路につくのでした。
1. 牧ノ原の開拓の際、幕臣たちのリーダーを努めたのは中条景昭(ちゅうじょう・かげあき)という人物でした。彼は、開拓と茶の栽培に命をかけることを誓い、その決意を、「自分は死んだら○○になる」という言葉で表しています。○○に入る言葉はなんでしょうか?
A.茶畑の守り神 B.茶畑の精(妖精) C.茶畑の土 D.茶畑のこやし(肥料)
2.徳川家と幕臣の領地から取れるお米の量は年間700万石。これは、江戸時代の人が何年くらい暮らせる量のお米に相当するでしょうか?
A.380年 B.38000年 C.380万年 D.3800万年
3.現在、浜岡原発があるのは御前崎市ですが、市町村合併で御前崎市ができる前は浜岡町という名前でした。では、浜岡の名の由来はなんでしょうか?
A.浜松市と静岡市の中間なので一字ずつ取った B.浜辺に岡(砂丘)があるから
C.昔、この地域を治めていたお殿様の名前が浜岡さんだったから
1.浦和の二七の市に立っている銅像とは、何の銅像でしょうか?
A.そろばん B.物を売る人 C.魚と野菜 D.お金の重さを量る天秤
→答えは「物を売る人」。本文にも書いてある通り、市場で物を売る、おばあさんの銅像が建てられています。
2.神社にはつき物なのに、調神社には無い「あるもの」とは何でしょうか?
A.鳥居 B.お賽銭箱 C.お参りのときに鳴らす鈴 D.手水鉢
→答えは「鳥居」。鳥居とは、神社の入り口にある、柱を組み合わせたような形の、いわば入場門です。これがあると、荷物の運び出しに不便ですね。だから、調神社には鳥居がありません。古代からの伝統です。
3.お地蔵様と同一人物である神様とは?
A.毘沙門天 B.不動明王 C.閻魔大王 D.天狗
→答えは「閻魔大王」です。お地蔵様は、地獄から罪人を救ってくれる、とても慈悲深い仏様です。そのお地蔵様の別の顔が、あの怖い怖い閻魔様。同じように、真に優しい人ほど、厳しいものです。真剣に本人のことをかんがえてくれているから。お父さんお母さんも、きっとそうですよね?もちろんFCの先生も。
◆応募資格:スクールFC・西郡学習道場・個別会員および会員兄弟・保護者
◆応募方法:「問題番号と答、教室、学年、氏名」をお書きになり、「歴史散策挑戦状係行」
と明記の上、メールまたはFAXでお送りください。なお、FCだよりにて当
選者の発表を行いますので、匿名を希望される方はその旨をお書きください。
◆応募先:Mail address :t-kanou@hanamarugroup.jp
FAX :048-835-5877(お間違えないように)
◆応募締め切り:2011年 8月 10日(水)21:00
◆当選発表:FCだより10月号にて発表いたします