にっぽん風土記 -八丈島-

『にっぽん風土記 -八丈島-』

こんにちは。今回の「にっぽん風土記」で訪れたのは八丈島(はちじょうじま)。八丈島は伊豆諸島の内の一つで、東京の南海上約290キロに浮かぶ人口約8200人の島です。島の南北には火山があり、それらに挟まれた島中央部の平地が島の人口密集地となっています。ひょうたんのような形から、『ひょっこりひょうたん島』のモデルにもなりました。

【八丈島の八丈】
 八丈島の名前は、島の特産品である「八丈」から来ています。八丈というのは絹織物の一種で、八丈島は昔からこの八丈の名産地として知られており、そのために八丈島という名になりました。八丈島の八丈は、戦国時代にはそれ目当てに島の領有権を巡って本土の大名の間で争いが発生するほど珍重(ちんちょう)されたものでした。
 結局、戦国時代に八丈島を支配したのは小田原に本拠をおく北条氏(ほうじょうし)。島に代官を派遣して八丈を税として納めさせました。江戸時代には幕府の領地となり、明治維新まで八丈島の島民は八丈を年貢代わりに納めることになります。
 北条氏や江戸幕府が島を治める代官所を置いたのが島の中心地である大賀郷(おおがごう)。代官所跡は現在、陣屋(じんや)と呼ばれ、美しい玉石垣(たまいしがき)が残っていることで知られています。玉石垣というのは、玉のように丸い石(玉石といいます)で作られた石垣で、七個の石を、一つは中心、残りはその周りに六角形に配置して整然と積み上げられています。陣屋周辺には江戸時代に築かれた玉石垣が多く残されていて、どこか城下町のような情感を漂わせています。

【流人の島】
 この玉石垣に使用されている丸い玉石は、もともとは海岸にあったものでした。長い年月、波にもまれて丸くなったものを拾ってきて石垣を築いたのです。玉石を運んだのは、本土から島に送られてきた流人(るにん)と呼ばれる人々でした。流人というのは本土で罪を犯したために島流しになった人のことで、八丈島は江戸時代、犯罪者が送られる「流人の島」としての役割を担っていました。流人たちが、島での仕事として玉石運びをおこなったそうで、報酬(ほうしゅう)は石一つにつき握り飯一つ。島に流されたといっても、その後の生活は誰も面倒を見てくれません。食べるものが無ければそのまま野垂れ死に。生きるために、彼らは玉石運びに従事しました。陣屋に残る美しい玉石垣は、そんな悲しい歴史の語り部でもあります。
 とはいえ、島は冬でも暖かく、人はとびきり親切で、生活は貧しく苦しくとも、そうそう暮らしにくいというところでもなかったようです。その証拠に、罪を許されて島を離れた流人の中には、再び島に戻って島で一生を終えた人たちもいます。流人に愛着を抱かせてしまう魅力が、八丈島にはあるようなのです。

【商店にて】
 今回の旅で、私も島の魅力を何度も実感しました。魅力の一つは、まず島の暖かさ。本当に快適で、訪れたのは真冬だったにもかかわらず、コートが邪魔になるくらいの陽気。都心の寒波が嘘のようでした。そして何より、人の優しさ。例えば、夜に小腹が空いたために何か買おうと思って立ち寄った小さな商店でのこと。店番は一人のおばあさんでした。カップめんがあったので選んでいると、「この先にスーパーがあるからそこで買ったほうがいいよ。種類もたくさんあるから」という言葉をかけられました。自分の店は品ぞろえが悪いから申し訳ないというのです。なんという無欲さでしょう。こうなったら意地でもこの店で買おう。そう思った私は、カップめんを持ってレジへ(レジというより番台といったほうがしっくり来るような店でした)。するとおばあさんは奥へ消え、しばらくするとお茶と大福餅とみかんを持って戻ってきました。カップめんのお金を受け取るより先に「今朝、隣の家でついた餅だから」とすすめてくれて、私は遠慮なく頂戴しました。すると再び奥へ引っ込み、今度は島の名産である「くさや」を持ってきてくれました。くさやは、魚を独特の強烈な匂いの液に漬けてつくる伊豆諸島の郷土料理で、その強烈な匂いから敬遠する人も多いようですが、私はむしろ好きな方なので、こちらも遠慮なくいただきました。とはいえ全部を食べきることはできません。すると、「残りは、持っておじゃれ(持っていきなさい)」と言って、わざわざラップで何重にも包んでお土産として持たせてくださいました。その後でようやくお金を渡すことができ、私は本当に温かな気持ちでその日の宿へと戻ることができたのです。
こういう人情は、おそらく江戸時代を通じて流人を受け入れ続けてきたことと無関係ではないでしょう。海の向こうから来た異邦人を温かくもてなす習慣が、長い年月をかけて島に根付いたのです。私のようなただの観光客に対してもこうなのですから、流人という悲しい身の上の人間に対しては、きっとなおさらのはずです。島に居ついてしまうのもわかる気がしました。

【温泉】
 島に流された人の中には、本土での政権争いで敗れた人もたくさんいました。つまり、もともとは身分の高い人たちです。それは例えば武士や僧、あるいは貴族や学者などでした。そういった身分の人たちは、島に大きな影響を与えます。彼らの学問や教養が島に伝わり、島の文化を形成したのです。例えば、先ほどのおばあさんの「~おじゃれ」という言い回し。これは、「~しなさい」とか「~してください」という意味の八丈島方言ですが、もともと「おじゃれ」というのは都の貴族の言葉でした。都の貴族やそれに近い身分の人が島に流されて貴族の言葉が伝わり、それが方言として今に残されているのです。ちなみに、「いらっしゃい」というのは「おじゃりやれ」と言うそうで、八丈島空港などには「おじゃりやれ、八丈島」というキャッチコピーの入ったポスターが数多く貼られていました。
私が八丈島を訪れて、素晴らしいと感じたところはまだまだあって、その一つが島の南部に多くある温泉です。中でも海に面した露天風呂は眺めが本当に最高で、真っ青な海の向こうには八丈島の南に位置する青ヶ島(あおがしま)の島影も見えました。私が行った時は、天気が曇りから晴れへと変わりつつある頃で、人気の少ない湯船では、水面に映る太陽がキラキラと揺れて、まるで太陽と一緒に風呂に入っているような感覚になってしまいました。

【宇喜多秀家】
しかし、思いっきり手足を伸ばして湯と絶景を堪能(たんのう)しつつも、気になって気になって仕方の無い人物が私にはいました。実は今回の旅は、その人物の足跡を訪ねることが目的でもあったのです。
その人物の名は宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)。彼は安土桃山時代の備前(びぜん:現在の岡山県)の大名で、大都市岡山の基礎を築いた人物です。時の最高権力者である豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)から実の子どものように扱われ、若い頃から秀吉の愛情と期待を一身に受けて育ちました。1588年には加賀(かが:現在の石川県)の大名である前田利家(まえだ・としいえ)の娘、豪姫(ごうひめ)と結婚。順風満帆な人生に見えました。
ところが、運命の暗転が始まります。1598年、秀家26歳の時に秀吉が死去。そして2年後、1600年には、豊臣家をないがしろにして権力を自分のものにしようという徳川家康(とくがわ・いえやす)と、豊臣家のためにそれを阻もうとする石田三成(いしだ・みつなり)との間に、”天下分け目の戦い”関ヶ原(せきがはら)の戦いが発生します。秀吉に可愛がられて育った秀家は、当然石田三成(西軍)に味方して徳川家康(東軍)と戦います。味方から続々と裏切り者が出る中、秀家は死力を尽くして戦いました。しかし、奮戦むなしく西軍は敗北。石田三成は処刑され、秀家は捕えられてしまいます。そして、徳川氏に敵対したことを罪に問われ、豪姫との間に生まれた二人の息子と数名の家来とともに八丈島への島流しの刑に処せられました。豪姫はこの時、秀家と一緒に島へ行くことを強く願いますが、結局それは認められず、二人は海を隔てて離れ離れに引き裂かれてしまいました。1606年のことで、これが記録に残る八丈島への流人第一号です。

【島での生活】
八丈島に流された秀家一行は、仕送りによって島での生計を立てていました。妻である豪姫から、秀家にお金やお米が送られていて、彼らはそれによって島での生活を続けていたのです。しかし、彼はもともと、今や天下を手中に収めて幕府を開いた徳川家と刃を交えた敵軍の大将です。いまだ幕府からその罪を許されてはいません。ですから、前田家からの仕送りは、秘かに、人目を忍んで続けられました。
ただ、秀家の生活は決して楽ではなかったようで、代官所でおにぎりを三つ恵んでもらったとか(三つのおにぎりを、一つはその場で食べ、残りの二つは子どもへの土産にしたそうです)、島に立ち寄った武士に酒を恵んでもらったとか、それを裏付ける逸話が島にはいくつも残っています。
何年も何年も、秀家は島での苦しい生活に耐え続け、豪姫は人目を忍んでお金やお米を送り続けました。ただただ、お互いに再会できる日を信じて。

【二人の最期】
しかし、運命は残酷(ざんこく)でした。秀家が島に流されてから28年後、豪姫が加賀で亡くなったのです。61歳でした。結局再会は叶わず、ただただ島の秀家を思い続ける寂しい晩年でした。
秀家はその後も島で生き続けます。豪姫の死後も、彼女の実家である前田家からは秀家への仕送りが続けられ、幕府もそれを許すようになりました。仕送りによって細々と島での生活を送っていた彼は、よく島の西海岸の千畳敷(せんじょうじき)と呼ばれる場所で釣りをし、自らを慰(なぐさ)めていたそうです。おそらく、彼は一人で西の空を見つめ、その向こうにある岡山を想っていたのでしょう。岡山は秀家の故郷であり、豪姫と過ごした思い出の地だったのですから。
この間、関ヶ原で戦ったライバルたちも、彼を島に流して江戸幕府初代将軍となった徳川家康も、次々にこの世を去っていきました。彼を島に残したまま、時代は休むことなく移り変わっていったのです。
そして、豪姫の死から21年後、彼はついに故郷の土を踏むことなく、島でその生涯を終えました。83歳でした。時に1655年。彼が島に来てからすでに49年が経っていて、時代は四代将軍家綱(いえつな)の世。秀家の運命を大きく変えた関ヶ原は、もう遠い昔の話となっていました。

【秀家の墓】
結局、公式に宇喜多秀家の罪が許されたのは江戸幕府崩壊後の1869年。実は、幕府からは「徳川氏の家来になって罪を悔い改めるなら許してやろう」という動きがあったのですが、敗れたとはいえ秀家は元は大大名。幕府に尻尾(しっぽ)を振ることを彼のプライドが許すはずが無く、結局彼は罪人としての人生を歩みきったのです。
島には、秀家の墓が今でも大切に残されていて、子孫の方の手によって供養が続けられています。秀家の二人の子どもが島で結婚して子どもも生まれ、今でもその家系が続いているのです。秀家の子孫は島で自立した生活を営みますが、豪姫の実家前田家は、明治時代になるまでの260年間、途切れることなく律儀に秀家の子孫への援助を続けました。関ヶ原での敗戦によって引き裂かれた二人への同情と、大大名の座から一転して流人へと没落してしまった花婿(はなむこ)への哀(あわ)れみの情は、相当深いものがあったのでしょう。
私が秀家の墓を訪れた際にも、子孫の方が供えたのでしょう、真新しい花が飾ってありました。その周りには彼の一族の墓がいくつも並んでいて、まるでにぎやかな家族に囲まれているようにも見えました。

【虹】
墓から車で10分弱、秀家が釣りをしながら岡山に思いを馳せた千畳敷の海岸に、二人仲良く座っている姿で秀家と豪姫の石像が建てられています。この像は、1997年に建てられました。結局生きて再会することの叶わなかった二人。石像となって、約400年ぶりの再会を果たしたのです。
私が二人の像を訪れたのは日暮れ時で、折しもちょうど雨上がり。二人が望む西の空と海は、夕日で金色に輝いていました。そして振り返るとそこには大きくな大きな虹が。それは、大地に足を踏ん張るようにして、夫婦の像を半円形に囲んでいたのでした。まるで、この世で会うことの叶わなかった二人がもう離れることのないよう、つなぎ止めているかのように。

 さて、今回の「にっぽん風土記」はここまで。夕日に染まる千畳敷を後にして、羽田への最終便の迫る八丈島空港へと、私は車を急がせました。その間も虹は消えず、七色のアーチに見送られて私は、このあたたかな島を後にしたのでした。

 

<今月の問題>
1. 明治時代になるまで、八丈島には当時の人々の生活に身近なある動物がいませんでした。その動物とは?
A.犬 B.馬 C.牛 D.にわとり

2. 宇喜多秀家が島流しになった1606年は、島にある自然現象が発生した年でもあります。その自然現象とは?
  A.オーロラ B.砂嵐 C.火山噴火 D.隕石落下

3. 漫画『ドラえもん』には、八丈島をモデルにしたと思われる島が登場します。その島の名前とは?
  A.ひょうたん島 B.四丈半島 C.吉祥島 D.百丈島

【1月号解答】
1. 本多忠勝が使っていた槍は、切れ味抜群で知られていました。その槍の異名とは?
A.兜斬り B.霞斬り C.蛙斬り D.蜻蛉斬り
答え→Dの、蜻蛉斬り。彼の槍の穂先に止まった蜻蛉が真っ二つに切れた、という逸話から、そのように呼ばれています。

2.大多喜町は、ある有名な漫画家が数多くの作品の舞台としたことでも知られています。その漫画家とは?
 A.水木しげる B.横山光輝 C.つげ義春 D.さいとうたかを
 答え→Cの、つげ義春。文学的で詩情あふれる作風で知られるつげ義春ですが、『西部田村事件』という短編が、大多喜をモデルにして描かれた作品です。

3.ドン・ロドリゴが漂着した御宿海岸ですが、この辺りはある有名な童謡が生まれた場所として有名です。その童謡とは?
 A.月の砂漠 B.我は海の子 C.大きな栗の木の下で D.春が来た
 答え→Aの、月の砂漠。御宿海岸には、これを記念してラクダの像が建てられています。

◆応募資格:スクールFC・西郡学習道場・個別会員および会員兄弟・保護者
◆応募方法:「問題番号と答、教室、学年、氏名」をお書きになり、「歴史散策挑戦状係行」
      と明記の上、メールまたはFAXでお送りください。なお、FCだよりにて当
選者の発表を行いますので、匿名を希望される方はその旨をお書きください。
◆応募先:Mail address :t-kanou@hanamarugroup.jp 
FAX :048-835-5877(お間違えないように)
◆応募締め切り:2012年 2月 29日(水) 21:00