西郡コラム 『沁みる声』

『沁みる声』2011年7月

以前、こんなことがあった。そのとき私が乗った帰りの電車は、満員とまではいかないが人と人とが触れ合う程度の混雑具合だった。しばらく電車に揺られていると、目の前の乗客二人が口論を始めた。中年の男性と、彼とは一回りほど年下の男性。粗暴な感じのする人たちではなかった。しかし、周囲の人が関わりあいたくないと敢えて無視を決め込むほどの声を張り上げ、互いを非難していた。一向にやめる様子はなく、周囲が凍りつくほどの罵り合いは次第に過熱していった。仕事帰りの疲れとお酒でも入っているのか、些細なことだけにどちらも引けぬ雰囲気になっていた。

突然、しかも不意に「ここでは、やめなよ」という一言が私の口から出てしまった。全く意図せず、思わず出てしまった一言だった。すると、二人はストップモーションのように静止して私と周囲を見渡し、そして示し合わせたかのように、電車を素直に降りた。静止画が動画に変わるように、また、ホームで口論を始めた。発進する電車の窓越しにいがみ合う二人の姿はみえたが、電車がホームを離れだすと、視界から消えた。その後、二人がどうなったかは不明。

見知らぬ人の喧嘩を仲裁するほど正義感が私にあるわけではない。罵り合うならどうぞご自由に、ただ私は聞きたくはない、帰りの電車は静かに乗っていたい。しかし、そのときは思わず「やめなよ」の一言が出た。しかも無意識に、力むことなく、モノトーンの口調は、冷水を浴びせるが如く、熱いバトルの二人をただ止まらせた。これが「やめろ」「外でやれ」とか怒気の強い声なら二人は私に食って掛かったかもしれない。もっと弱腰の声なら、眼中になかったかもしれない。ナチュラルな声だけにむしろ響いたのだろう。エキサイトする二人を制した声は、静かな声だった。決して大声ではなかった。

授業で盛り上がると子どもたちは興奮する。すると教室は活気を通り越してときには騒々しくなる。騒々しいと活気とは紙一重、静かな教室だけがいいわけではない。要は考えているかどうか、脳を働かせているかどうか。わかった、理解できた、だから何かを言いたい、発言したいはよしとしても、それが無秩序になると収拾がつかなくなる。ときには「静かにしなさい」と大人の威圧で制することもある。しかし、それは大人の権威で静めているだけで、子どもたちは叱られるから、怖いから黙る。しかし、まさに“暴君”。力で制するだけのことだ。

では、電車の中の二人を制したように、子どもたちに沁みる声とは、どんな声だろうか。まずは、明瞭。音がはっきり聞こえること。アーティキュレーション(発音・発声法)の問題だ。聞きづらいと音は、子どもたちに届かない。一音一音、一語一語もさることながら、特に語尾が不明瞭なときは、何を言っているか聞きづらい。理解しがたい内容は、聞きづらければ、もっとわからない。わからない授業ほどつまらないものはない。歯並びなどの先天的な問題もあるが、努力で克服できる。口の周りの筋肉を解し、口形をつくる。すべての音はアイウエオの形が基本。そしてリラックス。緊張すると上半身に力が入り、声が上滑りする。人前で話すからには、聞きにくい言葉では済まされない。

次に、大切なのは伝えたいかどうか。対峙できるかどうか。自己満足の声は、他者要らず。自分だけ好きなことをしゃべってそれでいいわけではない。相手に伝わってこそ意味をなす。相手に届ける意識があるかどうか。目の前にいる人には目の前にいる音量で届く。遠くにいる人にはそれなりの音量が必要だ。当たり前のことだが、案外難しい。相手に刺さる声は、対人関係の軋轢を避けてきた人には、出せない。人と人。向き合って初めて届く。自分のためではなく、あなたのためなら聞いてくれるかもしれない。
話す内容をどこまで熟知しているか。内容の曖昧な理解、貧弱な知識はときに口ごもらせることがある。淀みなくスラスラしゃべれるのは、話したい内容が次から次に頭に浮かぶからだ。不勉強な人は話せない。誤魔化しはきかない。たとえ、相手が子どもだろうと内容のないものは聞いてくれない。興味を持って、自分が面白いと思えるまで学び、咀嚼して、初めて話すことができる。内容のないものは話せない。

最後は人格。どんな話し方だろうが、聞きたいと思える人とそうでない人がいる。同じ言葉でも、すんなり入る人と雑音にしか聞こえない、いらつかせる人がいる。若い、年寄り、年齢は関係がないようだ。若いつやのある声がいいときもある。渋いぼそぼそ声でも聞きいることもある。聞いてくれるかどうか、その人の人生が人に好かれるかどうか。聞きいるだけの人柄かどうか。人前で話すことは、残酷な結果をうむ。

さて、ここまで書いてきたことは、すべて私の反省からだ。夜、敢えて塾に子どもたちは通う。そして通うからには、月謝を払う親御さんの労働がある。私の声は、子どもたちに届いているのだろうか。話す内容を理解してくれているのだろうか。聞かない子どもたちが悪いのではない。聞かせない私が悪い。怠るとだれも聞いてくれない。年を重ねれば安泰ではない。むしろ、年を重ねるごとに、子どもたちとの年齢とは遠ざかる。子どもたちに沁みる声は、日々作るしかない。