『本気であたる』2012年7月
今春、大学に合格した生徒たちが大学合格の報告を兼ね遊びに来た。出身中学も進学した高校も合格した大学もそれぞれ違うが、ともに学び高校入試を戦った仲間だけに学校の級友とはまた違う結びつきがある。今でも連絡を取り合い、一人では恥ずかしいと、まとまって挨拶に来た。それぞれが自分の進む大学学部を決めてくる、そしてそれを報告に来る。嬉しくもあり懐かしい。しかし、彼らはもう大学に入る年になったのかと思うと時の流れの早さを感じる。
その中の一人A君は、学校の成績がいいだけではなく、生徒会の活動でもリーダシップを発揮、サッカー部でも活躍したのが認められて推薦入学で大学付属の高校に入った。直接私が受け持ったクラスの生徒ではなかったが、推薦入学に必要な願書を見てほしいというので指導した。何故この学校に入りたいのか、将来何をしたいのか、偏差値の高い高校の推薦だけに小論文並みに問題意識と枚数が要求された。彼が書いてきた原稿は優秀な生徒らしくまとまっていた。しかし、その優等生振りが私には気に入らなかった。一文一文に、なぜそう書いたのか。なぜそう思うのか問うた。曖昧な記述には、本当にそう思っているのか、もっと自分に素直になって考え直し、書き直しを要求した。
彼は将来ジャーナリストになりたいという希望を持っていた。中学3年生で自分の進む道を決めること自体、彼の意識の高さを物語るが、彼が書いた願書の文章の中の、アフリカ難民を取材したい、そして交流したい、という一文が特に目にとまった。交流?誰があなたと交流する?家もない、食うものもない、病気は蔓延する、飢餓に打ちひしがれている人たちがあなたと交流すると思う?何不自由なく育ってきた私たちに彼らが心を許すと思う?上からの目線になっていない?見下していない?中学3年生には厳しい要求だが、彼だから妥協せず、そこまで追求して書き直させた。彼は提出日の朝五時までかかってやっと仕上げて提出した。こちらも終電を逃して、泊まるはめになったのだが。
自分の書いたものに書き直しを要求するには他者がいる。自分のなかのもう一人が、「これではない、何か違う、書き直し」と要求する。そして、自分の中だけではない他者、それが私たちだ。なぜそう書いた。どういう意味で書いた。何を思って書いた。書いた自分を否定し、更に別な自分を作り上げる。肯定、否定、肯定の弁証法的作業は、子どもの成長のプロセスだ。ものを書きあげる過程にこそ本来の教育がある。先ほど述べたように私の担当とは違うクラスに属していた。だから、彼を直接指導したことはない。たった一枚の願書を書き上げる、その瞬間の関係でしかなかった。しかし、その数時間は私にとって教師冥利に尽きるほどの貴重な経験をもたらし、原点となった。彼と私の真剣勝負。誤魔化しはきかない。私という人間と彼という人間、教える学ぶの次元を超えた、人格と人格とのぶつかり合い。私という人格に彼が見切りをつけて、適当な文を書いたなら、そこで終了。私が本気であたらなければ彼は動かない。朝までかかって書き上げた、の一言に私自身が救われた。敢えて書き直さなくても中学3年生にしては水準以上の願書でもあり、彼の成績からすれば当然合格する。しかし、彼のためにも書き直すことを要求した。
インターネット、通信教育、人と人とを介さないで学力は向上させることができる。しかし、通塾するということは、私と彼らの、人と人とのface to faceに意味がある。何を教えたか学んだかの次元ではなく、そこに本気の人間が立ちはだかる現実がある。学習は、所詮、自分がどうするかという世界。だから、あなたはどうする、本気で向き合わなければ、成立しない。知的水準の高い、優秀な生徒だから本気が成立するのではない。たとえまだ幼い、発展途上の子でも同じ。むしろ彼らだからこそ、本気でなければ動かない。この人は自分のために本気だ。そこで、やっと彼らも動き出す。
小学4年生でも同じ。あなたと共に学ぶことはできない、教室から出て行きなさい。泣く子もいれば、仏頂面をする子もいる。しかし、教室から出すということは、学習塾として存在しなくなる。それでも、本気で、こちらに邪心はない、ただただあなたのために物申す、ということ。だから、彼らに通じる。教師という私の体面のため、保護者の手前、そんな面子で子どもを動かすことはできない。
私たちのグループには「メシが食える大人を育てる」「生きる力を育む」というテーゼがある。学力を上げる、入試に合格させることも至上命題だが、それだけでは通塾する意味がない。人と人の関係を求めている。勤勉さが冷淡になり、労働が益々抽象的になり、そこには疎外された人が自然と増えてくる。そして人間関係が希薄になると傷つく、傷つくとまた避ける、逃避がはじまり、現実世界に生きていけなくなる。だから、人と人との関係に揉まれて成長するしかない。そこには本気で立ちはだかる大人がいるということ。
一枚の願書を書き上げる、彼と私の関係は、本気で学べ、教えろ、褒めろ、叱れを教えてくれた。