西郡コラム 『共生』

『共生』2012年10月

授業も補習も終わり、帰り支度を始めた子どももいる中、一人の女の子が隣りの男の子に算数の問題を習っていた。分からない問題があり、どうしても分かって帰りたい。だが、講師は他の生徒に捕まっている。もう帰宅時間が迫っている。自分の質問できる時間になるまで待てない。そう思ったその子は算数の得意な男の子に聞いていたのだ。同じクラスの、男の子に質問すること自体に抵抗があるはず。自分が出来ないことをさらすのも嫌なはずだ。そんな些事を越えて分かりたい一心で熱心に習っている。教える男の子も実に丁寧だ。相手の理解の程度を確認しながら言葉一つ一つを選び、図に描き式を立て教えている。男の子は国語を苦手にしているとは思えないほど、他者の理解を想像して試行錯誤しながら何とか分かってもらおうと工夫している。この微笑ましい、小さな学ぶ教えるの関係に、私の介入は邪魔なだけと、ただ遠目に眺めていた。

帰り際の一瞬の出来事だったが、多くのことを私に教えてくれた。分かりたいと思うこと。どうしても分かりたい、分かるまで帰れない、この気持ちや意志が基本。これをどうつくっていくか。分からなければ、出来なければ気持ちが悪いという感覚をどう育てていくか。指導する側の日々の言動がそこに集約されるべきであるとつくづく思い知らされる。分かりたい、出来たいという気持ちになるように教えていく。そして最終形は、子どもが自ら考えられること。そのためにこちらが「教える」ことは最小限に留める。

そして、学ぶことは出来ないことをさらけ出すことができるかどうか。帰り際の時間がない中で、男の子ではなく私が教えたなら、早く終わらせなければならない、何度も分かりませんという訳にはいかない、時間がない、大人が教えるという圧力がかかり、無意識に分かった振り、誤魔化しをうむ。彼女は彼に、分からない、納得できないことを素直に表現し、教える側もそれを受け入れ、分かるレベルを確かめ、別の視点を探し出し、また説明を繰り返す。

教える立場と学ぶ立場が固定されると、一方通行になる。これぐらい出来ないのかという雰囲気を醸し出したり、教える側が教えることを特権と見做し、学ぶ側に学ぶことを強制すればするほど学ぶ側はさらけ出せなくなり、分かろうとしない頑なな態度か、その場を逃れる振り、誤魔化しで、学ぶ教えるの関係は成立しなくなる。分からないなら何度でも教える、分かるまで分かる言葉で教える、という安心感を作り出すことが学ぶ側を開放する。これは教える側の前提になる。学ぶ教えるは、互いが互いを認め合い、すべてが削ぎ落とされた知的欲求のみ、あるがままの素朴な姿になることだと、二人を見て原点を知る思いがした。学ぶということは自己実現のため。

私たち学習塾は、中学受験、高校受験というハードルを避けて通れない。寧ろそこに目標があるから学習塾の存在理由もある。子どもたちの「自分の行きたい中学、高校に合格したい」という欲求は学習の動機付けになる。「何のために学習する?」に対して、将来のため、では漠然としすぎて意欲がわかない。受験という外圧にせよ、目標は明確であるだけ学習にも欲が出る、頑張れる。この時期、中学受験する小学6年生や高校受験する中学3年生は自分の学習だという自覚があり、主体的に取り組んでいる。やらされている学習では身に付かないことが分かってくる。試験に出るから問題を解く、覚える。試験の質が良ければ良いほどいい学習内容を学ぶことにもなる。良質の問題は子どもの頭を鍛える。苦手な科目も好きな科目もすべて学習しなければならない。好きな科目だけやっても合格しない。算数が好きな子は目を離すと算数の問題を常にやっている。悪いことではないが合格するためには社会も国語もやらなければいけないことも分かってくる。広く知識を身につける。受験学習もやり方次第、正しい方向性に導いてあげれば本質的な学習になる。

受験学習は入試に合格するため。合格するには、合格点を入試問題で出さなければならない。そこには競争の原理が働き、偏差値を出し、クラスを分け、席順を決めて子どもたちを競わせる。競争原理は社会に出ても同じ、勝たなければならない。綺麗ごとをいっても合格しなければ、何のために学習塾に通わせているのか、保護者の労働を無駄にする。

それでも、行き過ぎた競争原理を受験学習に導入すると、学習の質を変え、何のための学習か本末転倒、子どもの将来に役立たない。

偏差値は目安、クラス分けは適切な学習をするため、席順は学習環境整備のため、意味のあることをする。受験の世界に入ると視野が狭まり、情報に煽られ、踊らされる。間違った学習観がまかり通る。しかし、他人と比べても仕方がない。あくまで学習は自己実現のため、自分を鍛えるために学習する。そして、自己実現は社会とのかかわりの中でしか実現しない。

これからの時代、すべての学習が競争ではなく共生を前提にしなければならない。3・11の震災で一人では生きて行けないことを学んだ学校を、教室を取り巻く社会問題もお互いを認め合うことからしか解決の糸口はない。教育に関わるすべての人の頭の片隅に共生という言葉を残しておくこと。分からないから聞きたい、それに応えるクラスメイトがいる。些細な学習の一場面でしかなかったが、共生ということを考えさせられた。