にっぽん風土記 -茨城-

『にっぽん風土記 -茨城-』

こんにちは。今回の「にっぽん風土記」で訪れたのは茨城県。茨城が生んだ二人の剣豪の足跡と、有名な工業地域を訪ねるため、県南東部~中部にある鹿島(かしま)市と行方(なめがた)市を巡ってきました。

【戦いの神】
夜も明けきらぬ早朝、私はさいたま市でレンタカーを借り、鹿島灘(かしまなだ)に面する鹿島市へと向かいました。高速道路で茨城県内に入り、高速を降りてからは一般道路で鹿島へ車を走らせます。その途中、目に付いたのが「茨城県内の道路に段差あり」という注意を促す標識。道中、何度もこの標識に出会いました。実際、道はところどころ凸凹していて、ひび割れを直したような跡もたくさん見られました。一年前に起きた震災の傷跡であることは一目瞭然。茨城県も被災地であることを改めて認識しました。
さて、さいたま市を出発して2時間強で、私は鹿島市に鎮座する鹿島(かしま)神宮(じんぐう)へと到着しました。鹿島神宮は関東有数の大きな神社で、古くから多くの人の信仰を集めてきました。ご祭神は武(たけ)甕(みか)槌(づち)大神(おおかみ)。「甕(みか)槌(づち)」は「いかづち」と同じ意味の言葉で、雷、稲妻(いなずま)を表します。「武(たけ)」は強いという意味ですから、武甕槌大神は「強い稲妻の神様」ということになります。その名のとおり武甕槌大神は、古来より「戦いの神」「武術の神」「刀剣の神」「軍神」としてあがめられてきました。
神社の境内には、神の使いとされる鹿が飼われています。奈良の寺社でもよく目にする光景ですが、ここの鹿は奈良のとは一味違います。奈良の鹿は、角を切られていていることもあり、おとなしくて優しくて可愛い、というイメージが強いと思いますが、鹿島の鹿はさすがに戦いの神のお膝元(ひざもと)に暮らしているだけあって猛々しいことこの上ありません。雄(お)鹿(じか)は皆、立派な角を持っています。そして、私が見ている前で、数組の雄鹿が角を突き合わせて戦いを始めたのです。ご祭神の名の通り、まさに稲妻のような角を振り立てて、渾身の力を込めて押し合う姿は剣道でいう「つばぜり合い」そのもの。朝6時半の静かな境内に、角のぶつかり合う音、こすれる音、そして鹿の激しい息づかいが響き渡り、戦いの神を祭る鹿島神宮にふさわしい光景が繰り広げられていました。

【塚原卜伝】
「戦いの神」として尊敬を集めてきた鹿島神宮だけあって、ここからは著名な剣豪が世に出ました。その名は塚原卜伝(つかはらぼくでん)。戦国時代(今から450年ほど前)の剣豪で、鹿島神宮に千日間こもって修行し、鹿島(かしま)新当流(しんとうりゅう)という剣術流派を興した人物です。
彼は、鹿島神宮の近くで勢力を持っていた吉川家という武士の家に生まれ、幼い頃から父に剣術を叩き込まれて育ちました。その後、神宮の北にある塚原城の城主である塚原氏の養子となって塚原(つかはら)高幹(たかもと)を名乗り、養父からも剣術を叩き込まれます。この段階で彼はかなりの腕前に達していたようですが、さらに腕を磨いて剣の奥義(おうぎ)を極めようと思い立ち、突如城主の地位を子どもにゆずって武者修行の旅に出ます。武者修行中、各地で真剣勝負(木刀や竹刀などではなく、本物の刀をつかった勝負)を繰り返し、倒した相手はなんと200人以上。そして激しい修行と命をかけた決闘の末、ついに剣の奥義を会得(えとく)。名を塚原卜伝と改め、独自の流派である鹿島新当流を開くに至ったのです。
彼の名声は全国にとどろき渡り、多くの剣士が彼の弟子となりました。その中には、足利(あしかが)義(よし)輝(てる)(室町幕府13代将軍)、上泉(かみいずみ)信綱(のぶつな)(新陰流(しんかげりゅう)の開祖)、北畠(きたばたけ)具(とも)教(のり)(伊勢(いせ)=三重県の大名)などかなり著名な人物も含まれます。
卜伝が城主を務めた塚原城は、今は一面の畑となっていて、往時をしのぶよすがはありません。卜伝の剣名が鳴り響いていた当時は、弟子入りのために訪れた剣士たちであふれていたに違いありませんが、450年以上が経った今は訪れる人も無く、ただただ風が吹き渡っているばかりの光景でした。
しかし、時代が変わり景色が変わっても、卜伝が開いた鹿島新当流が忘れ去られることはありませんでした。神宮のすぐ近くには鹿島新当流の道場が設けられており、そこでは卜伝の実家である吉川氏の子孫の方を師範として、毎週激しい稽古がおこなわれています。卜伝が生涯をかけて打ち立てた鹿島新当流は、今でも確かに受け継がれているのです。

【ほりこみ港の鹿島臨海工業地域】
鹿島神宮を後にした私は、第二の目的地を目指して鹿島市の市街地へと車を進めました。見えてきたのは一面の工場地帯。ここが、ほりこみ港で名高い鹿島(かしま)臨海(りんかい)工業(こうぎょう)地域(ちいき)です。
ほりこみ港とは、海から陸地へ向けて、水路のように造られた港。鹿島臨海工業地域は、このほりこみ港を中心に発展した工業地域です。手元に地図帳があれば鹿島市付近を見てください。鹿島港から、Y字型の水路が陸地へ向かって伸びているのが見えるはずです。これこそが、ほりこみ港。外国から輸入した鉄鉱石や原油などを、ほりこみ港によって陸地の工場まで直接運び込むのです。これなら、輸入した物資を車に積み替える作業なども省くことができますし、非常に効率的です。輸出する際もまた同様です。
掘り込み港に面して見学用の塔が建てられており、登ると工業地域を一望することができました。上から見下ろすと、鹿島灘からこちらに向かってまっすぐに水路が延び、それが塔のところで二股に分かれてY字型の港が構成されているのがはっきりわかります。また、ほりこみ港に面してたくさんの工場が立ち並び、多くの荷物を積んだ船が横付けされているのも確認できました。どうやら、荷物の積み下ろしの最中のようです。そして、工場のいたるところには、赤黒い砂のようなものが山のような高さに積み上げられているのが見えます。それは特に屋根で覆(おお)われているわけでもなく、むき出しのまま積まれていました。これは鉄(てっ)鉱石(こうせき)だそうで、このことからこの工場が製鉄工場であることがわかります。鉄鉱石は、石炭、石灰石と合わせて鉄を作るための原料です。日本は外国から多くの鉄鉱石を輸入しているということは知っていましたが、それがこんなに無造作に積んであるとは、実際にここを見るまでは知りませんでした。工場の敷地にむき出しで置かれているということは、雨に濡れても大丈夫ということなのでしょう。こういうことは、「実際に見る」ということを経験して初めてわかることです。テレビや新聞や教科書は、そんなことまで教えてくれません。家や学校や塾にいるだけではわからないことは、やはりたくさんあります。皆さん、外に出ましょう。

【芹沢鴨】
鹿島を後にした私は、今度は北に向かって車を進めました。目指すは行方市。湖としては広さ第二位の霞ヶ浦(かすみがうら)のほとりに広がる街です。
行方市を訪れたのは、茨城県が生んだもう一人の剣豪の足跡をたどるためです。その名は芹沢(せりざわ)鴨(かも)。幕末史を彩った「新選組(しんせんぐみ)」を率いたことで名高い人物です。
芹沢鴨は行方市の玉造(たまつくり)という場所の生まれで、その生家が今でも残っています。子孫の方が今も暮らしていますので中を拝見することはできませんが、庭の広さや建物の大きさから、その裕福さがうかがい知れます。それもそのはず、芹沢家はもともとこのあたりを支配する領主でした。芹沢家のすぐ裏手は丘になっていて、そこは芹沢城というお城の跡地。代々芹沢家が主を務めてきた城です。芹沢家は江戸時代には農民として暮らしていましたが、もともとは城主の家柄ですから、地元でも有名な豪農(ごうのう)(裕福な農家)だったのです。
鴨は1827年生まれ。幼い頃から剣術修行に励み、神道(しんとう)無念流(むねんりゅう)を極めました。その後、当時流行した尊王(そんのう)攘夷(じょうい)運動(うんどう)(天皇を敬い外国を打ち払おうという運動)に身を投じますが、ささいなことから人を斬ってしまい牢獄へ。処刑される直前に特別に許され、「浪士組(ろうしぐみ)」という組織に参加しました。この浪士組が、後の新選組です。

【悪名】
時代は幕末。長州藩(ちょうしゅうはん)(山口県)や土佐藩(とさはん)(高知県)の侍たちが、徳川幕府を倒そうと京都を舞台に活発に動き回っていました。浪士組改め新選組は、そういった動きを武力で取り締まり、京都の治安を守るために結成されました。当然そこに参加する隊士は剣の腕の立つ者ばかり。芹沢の他にも近藤(こんどう)勇(いさみ)や土方歳三(ひじかたとしぞう)、沖田(おきた)総司(そうじ)など、数々の華やかな剣士を輩出したことで、新選組は今でも絶大な人気を誇っています。
結成当初、新選組のリーダー役である「局長(きょくちょう)」には、芹沢鴨、近藤勇、新見(にいみ)錦(にしき)の三人が就任しました。そして芹沢は、局長の中の局長である「筆頭(ひっとう)局長(きょくちょう)」という役に就きます。つまり、実質的な組織のトップです。彼の剣の腕と、学識が買われた結果だったようです。芹沢は筆頭局長として活躍し、京都での新選組の名を高めていきました。
しかし、そのわずか半年後、芹沢は同志であるはずの近藤らによって殺されました。酒に酔ったところを大勢で襲うという、不意打ちによるものでした。芹沢が暗殺された原因は、一般的には彼の素行の悪さにあったといわれています。子分を引き連れて無理やり商人の家に押し入っては強引に金を巻き上げる。もし金を出さなければ大暴れして店を壊す。酒に酔って大暴れする。無闇に人を斬る・・・。筆頭局長でありながら、こういった行いを重ねて悪名ばかりが高まったため、新選組の評判が悪くなることを恐れた近藤らによって暗殺されてしまったというのです。

【芹沢の実像】
しかし、芹沢が殺された原因は、彼の素行が悪かったから、という単純なものではなかったようです。
実は、新選組の内部は二つのグループに分かれていて、それぞれが対立していました。一つは芹沢グループ、もう一つは近藤グループ。この二つのグループの勢力争いの結果、ライバルである近藤グループによって芹沢が殺されたというのが実情のようです。今に伝わる芹沢の数々の悪行も、よく調べると根拠の無いものが多く、芹沢暗殺を正当化しようという近藤グループによるでっち上げの可能性がとても高いのです。
確かに、芹沢は大酒飲みで豪快で、誤解を受けやすい人間ではあったようです。重い鉄扇(てっせん)(鉄製の扇子。相当な腕力が無ければ扱えません)を常に持ち歩いていた、などというのも、乱暴者のイメージを定着させた一因であったかもしれません。しかし、芹沢と直接接したことのある人物の証言を見ると、また別の一面が見えてくるのも事実です。例えば、新選組が下宿していた家で葬式があった時、芹沢が積極的に手伝いを買って出ていた、という話や、その葬式の際、退屈している子どものために面白い絵を描いて遊んであげていた、等々。気さくで手先が器用で子ども好きという、一般的にはあまり広まっていない彼のイメージが浮かんでくるのです。

【ふるさとの風景】
芹沢の生家の周りにはのどかな農村風景が広がっています。私が訪ねていた間中、隣家で飼われている大きな犬が、長い尻尾を振りたてて私に向かって吠え続けていました。それ以外には一切物音は聞こえず、おそらく周囲の風景は彼が育った頃とさほど大きくは変わっていないのだろうと思われました。
葬式の際、子どもに絵を描いて遊んでやったというエピソード。彼は、幼い頃から絵を描くのが好きだったのかもしれません。紙はまだまだ貴重品でしたから、きっとその辺の道端(みちばた)にしゃがみこんで、木の枝で地面に描いたりしていたのでしょう。後年のように、面白い絵を描いては友達に見せて、笑わせたりもしていたのでしょうか。
そんな想像をしていると、ふと、生垣の向こうの曲がり角から子ども時代の彼がヒョイと出て来そうな気がして、なんだか不思議な気持ちになってしまいました。

さて、今回の「にっぽん風土記」はここまで。生家のすぐ西に広がる霞ヶ浦と、遠くに見える筑波山を眺めながら私は、震災の傷が癒えきらぬ道をひた走り、家路に就いたのでした。

<今月の問題>
1. 塚原卜伝は、かの有名な宮本武蔵と対戦したという伝説を持っています。その際、武蔵から突然打ちかかられた卜伝は、身近なあるものを使って武蔵の攻撃を受け止めたといわれていますが、そのあるものとは?
A.はし B.下駄 C.なべのふた D.たきぎ

2. 江戸時代後期、霞ヶ浦ではある自然現象が原因となって多くの洪水が発生しました。その自然現象とは?
  A.火山の噴火 B.大地の隆起 C.地球温暖化 D.森林伐採

3. 芹沢を倒した近藤勇ですが、彼の剣道着にはあるものが刺繍で描かれていました。そのあるものとは?
  A.龍 B.こうもり C.閻魔様 D.どくろ

【3月号解答】
1. 明治時代になるまで、八丈島には当時の人々の生活に身近なある動物がいませんでした。その動物とは?
A.犬 B.馬 C.牛 D.にわとり
答え→Bの、馬。牛はたくさんいて、乳製品は八丈島の名産品となっています。

2. 宇喜多秀家が島流しになった1606年は、島にある自然現象が発生した年でもあります。その自然現象とは?
A.オーロラ B.砂嵐 C.火山噴火 D.隕石落下
答え→Cの、火山噴火。八丈島は二つの火山から構成されている島です。そのために温泉も豊富で、地熱発電所も設けられています。

3. 漫画『ドラえもん』には、八丈島をモデルにしたと思われる島が登場します。その島の名前とは?
  A.ひょうたん島 B.四丈半島 C.吉祥島 D.百丈島
答え→Bの、四丈半島。スネ夫のパパの別荘があります。ちなみに、百丈島は『キテレツ大百科』に登場します。

◆応募資格:スクールFC・西郡学習道場・個別会員および会員兄弟・保護者
◆応募方法:「問題番号と答、教室、学年、氏名」をお書きになり、「歴史散策挑戦状係行」
      と明記の上、メールまたはFAXでお送りください。なお、FCだよりにて当
選者の発表を行いますので、匿名を希望される方はその旨をお書きください。
◆応募先:Mail address :t-kanou@hanamarugroup.jp 
FAX :048-835-5877(お間違えないように)
◆応募締め切り:2012年 4月 30日(月) 21:00