にっぽん風土記 -愛知-

『にっぽん風土記 -愛知-』

こんにちは。今回の「にっぽん風土記」で訪れたのは愛知県。かつて三河(みかわ)国(のくに)と呼ばれた愛知県東部を中心に、松平(まつだいら)氏(し)にまつわる数多くの史跡を訪ね歩いてきました。

【松平氏】
皆さんは松平氏という一族を知っているでしょうか?受験科の皆さんは、寛政(かんせい)の改革(かいかく)をおこなった松(まつ)平定(だいらさだ)信(のぶ)という名前などでなじみがあるかもしれません。
松平氏は、江戸(えど)幕府(ばくふ)を開いた徳川(とくがわ)家康(いえやす)を生んだ家系です。家康は、もともと松平という苗字を名乗っていましたが、後に徳川と改めて徳川家康となったのです。今回の旅は、この松平氏のルーツと家康の青年時代の足跡を訪ねる旅となりました。
三河(みかわ)安城(あんじょう)駅で車を借りて、最初に向かったのは豊田(とよた)市。市の中心部にはトヨタの工場が建ち並び、にぎやかに発展している豊田市ですが、少し市街地をはずれると景色は急に田舎めいてきます。目に入ってくるのは新緑をまとって輝く山と川ばかり。そして、聞こえてくるのは野鳥の鳴き声だけ。そんな景色の中をさらに山奥へと分け入ると、ぽつんとたたずむ小さな山里にたどり着きます。松平(まつだいら)郷(ごう)。この山里の名前です。そう、この小さな小さな山里こそが、松平氏の、そして後に天下を統一して260年以上にわたる平和な時代を作り出した徳川家康の、まさに原点なのです。
松平氏の基礎を築いた人物は松平(まつだいら)親(ちか)氏(うじ)という人物ですが、彼の人生は謎めいています。伝承によると、親氏はもともと上州(じょうしゅう)(群馬県)から放浪(ほうろう)の旅を重ねてきた徳阿(とくあ)弥(み)という僧侶(そうりょ)で、旅の末にこの山里に流れ着き、地元の有力者であった松平(まつだいら)太郎(たろう)左(ざ)衛門(えもん)に気に入られていつの間にか松平家に住み着き、太郎左衛門の娘と結婚して彼の婿養子(むこようし)になったということになっています。時代は室町時代中期。金閣を建てた足利(あしかが)義(よし)満(みつ)全盛のころです。婿養子になった徳阿弥は僧侶の身分を捨てて松平親氏と名を改め、まんまと松平氏の当主となりました。そして松平郷の中心部に松平城という山城を築き、子どもの泰(やす)親(ちか)とともに松平氏の勢力を拡大していったと伝わっています。
今は石碑が建つのみの松平城に一人たたずむと、この小さな山城からスタートして、ついには日本全国を支配するまでに成長した松平氏の、長い苦労の歴史に思いが巡り、なんだか軽いめまいに襲われるような感覚に陥ってしまうのでした。
【松平氏の躍進】
三代目の信光(のぶみつ)の代に、松平氏は大躍進(だいやくしん)を遂げます。田畑の少ない山間の小領主であることに満足せず、南に広がる水田地帯を手中にするための大規模な南進を開始したのです。
信光がまず狙ったのは岩津(いわづ)城。松平郷が属する山地と、水田が広がる岡崎(おかざき)平野(へいや)との境目に位置する城です。信光は岩津城を手中にすると休む間もなくさらに南進。岡崎平野の西部、湿地と森の中にそびえる安祥(あんしょう)城をも攻め落とします。これ以降、松平氏の本拠は松平郷から岩津城、そして安祥城へと移りました。松平氏は三代をかけて、山間の小領主から脱却することに成功したのです。
その後、四代親(ちか)忠(ただ)、五代長親(ながちか)と順調に勢力を拡大した松平氏の次の目標は、水田地帯の中心地である岡崎でした。岡崎を手に入れれば豊かな食料を確保することができるからです。しかし、その目標は簡単には達成されませんでした。長親の時代の後半から六代信(のぶ)忠(ただ)の時代にかけて、東の今川(いまがわ)氏(し)と西の織田(おだ)氏(し)という大勢力に邪魔をされ、松平氏は苦戦を強(し)いられていったからです。
そんな中、松平氏に一人の英雄が登場します。七代目の当主である清(きよ)康(やす)です。彼は、岡崎奪取(だっしゅ)という松平氏の悲願を達成するため、活発に行動しました。その結果、岡崎を支配する西郷(さいごう)氏(し)の居城、山(やま)中(なか)城を攻略。これを受けて西郷氏は清康に降伏し、山中城の北にある岡崎城も清康に明け渡しました。こうして松平氏は、七代目の清康の代にしてようやく、岡崎という水田地帯の中心地を手に入れたのです。時に1526年。戦国時代の幕開けを告げた応仁(おうにん)の乱(らん)から60年が経ち、日本全国の混乱はいよいよその極みに達しつつある時期でした。

【守山崩れ】
清康は、まさに英雄といっていい武将でした。彼は岡崎を手中にしただけでは満足せず、三河各地に軍を進めてあっという間に三河の統一を達成したのです。この時、清康はわずか19歳。当時の記録には、彼は小柄(こがら)ながら目に力があり、並ぶ者の無いほどの美男子だったと書かれています。残された彼の画像を見ると、まさに記録通り。するどい眼光と整った目鼻立ちが印象的です。また、身分の上下にこだわらずに部下を大事にしたため、非常に人望があったとも伝えられています。清康は、松平氏にとってまさに期待のリーダーでした。
三河を統一した清康は、西隣の尾張(おわりの)国(くに)(愛知県西部)にも進出を開始します。尾張の領主は織田(おだ)信秀(のぶひで)で、こちらも当時一流の戦国武将。「尾張の虎(とら)」と呼ばれたほどの人物です。
清康が狙ったのは尾張北西部にある守山(もりやま)城(現在の名古屋市(なごやし)守山区(もりやまく))でした。城を包囲した清康は戦いを有利に進め、落城は時間の問題かと思われました。しかし、突然の悲劇がこの若い英雄を襲います。戦いの中で精神に異常をきたした家来によって、清康は斬り殺されてしまったのです。この「守(もり)山崩(やまくず)れ」と呼ばれる大事件により、勝利を目前にしていた松平軍は急遽(きゅうきょ)岡崎へ撤退(てったい)。以降、松平氏は辛い苦難(くなん)の時代へと突入することになります。
清康の遺体は岡崎で火葬され、その地には後に随(ずい)念寺(ねんじ)という寺が建てられました。私が随念寺を訪れた時は、しとしととした雨模様で、リーダーを失った松平氏の悲しみが、今も辺りに漂(ただよ)っているように感じられました。

【人質】
清康の死後、後を継いだのは清康の子どもである広(ひろ)忠(ただ)でした。しかし、広忠はこの時わずか15歳と若く、清康の死後に起きた後継ぎ争いの影響もあって松平氏の屋台骨はぐらぐらになっていました。
この状況をチャンスと見た織田信秀は岡崎に攻め寄せます。広忠は、東隣の遠江(とおとうみの)国(くに)・駿河(するがの)国(くに)(いずれも静岡県)の領主である今川氏に助けを求めました。この時の今川氏の当主は今川(いまがわ)義元(よしもと)。義元は援助を約束しますが、その代わりに人質を差し出すよう要求してきました。応援する代わりに人質を手元において、松平氏を意のままに操ろうというのです。今川氏の応援が無ければ織田信秀に対抗できない広忠は、自分の子どもである竹(たけ)千代(ちよ)を今川義元のもとに送ることを了承しました。
人質として選ばれた竹千代は、家来の船によって今川義元のもとへ送られるはずでした。ところが、ここで再び大事件が発生します。竹千代を今川氏のもとへ送るはずの家来が、金に目がくらんで心変わりし、竹千代を尾張の織田氏へ売ってしまったのです(この頃は、人身売買が日常的におこなわれていました)。織田氏としてはもっけの幸(さいわ)い。竹千代を人質にすれば、松平氏をおどして自分たちの支配下に置くことができるかもしれません。しかし、竹千代の父である広忠は織田氏の支配下に入ることを拒(こば)みました。今川氏と協力していくことを選んだのです。竹千代は、見捨てられたも同然でした。
結局、織田軍と松平・今川連合軍は岡崎南部のゆるやかな坂で激突しました。この坂には今でも古戦場であることを示す大きな石碑が建っていて、周囲には数多くの慰霊(いれい)碑(ひ)や供養塔(くようとう)が残されています。この戦いは松平・今川連合軍の勝利に終わり、さらにその後の戦いによって、今川氏は竹千代を織田氏のもとから奪い返しました。しかし、竹千代は父のもとに帰ることはできませんでした。今度は、今川氏の人質として駿河へ連れて行かれてしまったからです。
そして、この間に衝撃的な出来事が松平氏を襲いました。竹千代の父である広忠が、清康と同じように家来によって刺し殺されてしまったのです。24歳の若さでした。
竹千代は、人質の身のままで松平氏の当主となりました。このとき竹千代はわずか8歳。松平氏は、今川氏の完全な支配化に置かれることになったのです。

【大転回】
時は流れ、今川氏の保護のもとで竹千代は青年へと成長しました。名前も、今川義元から一文字を与えられて松平元(もと)信(のぶ)と改め、さらに、祖父である清康の名前から一文字を受け継ぎ、松平元(もと)康(やす)と改めました。しかし、自由の無い人質生活であることには変わりありません。この間、松平氏の本拠地である岡崎は、今川氏が派遣した代官によって支配されて植民地同然の状態になっており、松平氏の家来たちは今川氏によってひたすらこき使われる日々を送っていました。それでも彼らは、元康が帰ってくる日を信じて、苦労にじっと耐え続けました。
1560年、元康が19歳になった年、織田氏と今川氏の間に争いが発生します。今川義元は、みずからが軍を率いることで織田氏を圧倒しようと考え、大軍を編成して西に向かいました。元康も、今川軍の一部隊を率いて出陣。織田軍の立てこもる丸根(まるね)砦(とりで)と鷲津(わしづ)砦(とりで)を攻め落とすという大手柄(おおてがら)を立てました。義元は、元康の保護者としてこれを大いに喜び、今川軍には早くも戦勝気分が漂っていました。
しかし、運命の大転回は突然訪れます。今川義元が、織田軍の奇襲(きしゅう)攻撃によって討ち取られてしまったのです。世に言う、桶(おけ)狭間(はざま)の戦い(たたかい)です。総大将の討ち死にによって今川軍は大混乱。ほうほうの態(てい)で駿河へと退却していきました。
元康は保護者を失い、戦場に放り出された格好でした。とりあえず故郷の岡崎に逃げ戻りますが、この後どうしたらいいのか見当もつきません。家来たちは、元康が岡崎に戻ってきたことを泣いて喜び、この機会に今川氏の支配から独立することを強く勧めてきます。しかし、元康は途方に暮れたままでした。長い人質生活で義元の保護を受け続けてきた彼には、独立するだけの自信が無かったのです。

【厭離穢土 欣求浄土】
祖父も親も殺され、物心ついた頃から人質として他国をたらいまわしにされ、そして保護者である今川義元も突然この世を去りました。独立するだけの自信もありません。戦国の世の辛さをこれでもかというくらいに味わわされ、強い絶望感と無力感にさいなまれた彼が選んだ道は、「死」でした。祖先が眠る大樹寺(だいじゅじ)で、腹を切ることに決めたのです。大樹寺は岡崎市内北部にある大寺院で、今も大きな山門が周囲を圧倒しています。境内の奥には親氏以来の松平氏代々の墓が並んでいて、松平氏の歴史を無言のうちに物語っています。
元康は、この墓前で腹を切ることにしました。先祖たちが見守る中、どっかと腰を下ろした彼がまさに腹を切ろうとしたその時、境内に大きな叱声(しっせい)が響きました。声の主は大樹寺の住職である登(とう)誉(よ)。それは、切腹を思いとどまらせるための叱声でした。登誉は、元康にある言葉を授けます。その言葉は、「厭離(おんり)穢土(えど) 欣求(ごんぐ)浄土(じょうど)」。これは仏教の言葉で、「厭離」=嫌だ・離れたい、「穢土」=ひどい世の中、「欣求」=強く望む、「浄土」=清らかな場所・仏様のいるあの世、ということ。つまり、「こんなひどい世の中は嫌だ、早く清らかなあの世へ行きたい」という意味です。元康もこの言葉と意味は良く知っています。しかし、登誉はこの言葉に新たな解釈を加えて元康に示しました。
「こんなひどい戦国の世はもうたくさんだ。だからこそ、清らかで平和な世を築くために生き続けなければならない」。
この言葉で、元康は生きて戦い続けることを決意しました。

【その後】
岡崎を拠点にして独立を果たした元康は、数々の戦いを勝ち抜いて江戸幕府を開き、260年以上にわたる平和な時代を築きました。
戦いの際、元康の脇には本陣を示す大きな旗が必ず立てられていて、それは彼が徳川家康と名を改めてからも変わることはありませんでした。そして、その旗には大きくこう書いてありました。
「厭離穢土 欣求浄土」

現状のひどさを嘆(なげ)いてあきらめるのか、現状がひどいからこそ戦うのか。彼の葛藤(かっとう)は、いつの時代にも通じるものでしょう。日本史上最大の「成功者」である彼でさえ、最悪の状況に直面して一度はそこで迷い、あきらめかけ、逃げかけた。だから、あきらめかけていることで自分をあきらめる必要は無い、自分を見捨てる必要は無い、新たな気持ちでもう一度挑戦すればいい―。松平氏の歴史をたどって古戦場や寺を巡り歩くうちに、私はいつしかそんな気持ちになり、歴史の中で生き、死んでいった多くの人たちによって勇気付けられていることに気づき始めていたのでした。

さて、今回の「にっぽん風土記」はここまで。松平氏の長い歴史に再び思いを馳せながら私は、夕闇に溶けゆく岡崎の街を後にしたのでした。

<今月の問題>
1. 江戸時代、岡崎城の西には当時日本最長といわれた橋が架かっていました。その橋の名前は?
A.吾妻橋 B.万代橋 C.矢作橋 D.吉田大橋

2. 織田軍と松平・今川連合軍が激突した坂には、ある食べ物の名前を含んだ名が付けられています。では、その坂の名前とは?
  A.豆腐坂 B.納豆坂 C.小豆坂 D.大豆坂

3. 松平清康と松平広忠が刺し殺された際に凶器となった刀は、どちらも同じ銘柄のものだったといわれています。その銘柄の名前とは?
  A.村雨 B.村正 C.村雲 D.村鬼

【5月号解答】
1. 塚原卜伝は、かの有名な宮本武蔵と対戦したという伝説を持っています。その際、武蔵から突然打ちかかられた卜伝は、身近なあるものを使って武蔵の攻撃を受け止めたといわれていますが、そのあるものとは?
答え→Cの、なべのふた。実際には、卜伝と武蔵は同じ時代を生きていませんので、これは飽くまでも伝説です。

2. 江戸時代後期、霞ヶ浦ではある自然現象が原因となって多くの洪水が発生しました。その自然現象とは?
答え→Aの、火山の噴火。浅間山の噴火で土砂や火山灰が積もり、川床が上昇したことが原因でした。

3. 芹沢を倒した近藤勇ですが、彼の剣道着にはあるものが刺繍で描かれていました。そのあるものとは?
答え→Dの、どくろ。妻である、常さんの手縫いの品です。今でも、町田市の小島資料館で見ることができます。

◆応募資格:スクールFC・西郡学習道場・個別会員および会員兄弟・保護者
◆応募方法:「問題番号と答、教室、学年、氏名」をお書きになり、「歴史散策挑戦状係行」
      と明記の上、メールまたはFAXでお送りください。なお、FCだよりにて当
選者の発表を行いますので、匿名を希望される方はその旨をお書きください。
◆応募先:Mail address :t-kanou@hanamarugroup.jp 
FAX :048-844-2452(お間違えないように)
◆応募締め切り:2012年 6月 30日(土) 21:00

☆今月の正解者☆
戸塚貴子さま(本八幡校)、MNTさま(お茶の水校)  ご応募、ありがとうございました!