『「行きたくない」は教育のチャンス』2014年11月
冬が近づき、夜空の星がきれいな季節。はるかかなたで何億年も前に輝いた光を見ているわけで、人間の営みのスケールとかけ離れた雄大さに、謙虚になる自分がいます。無数に見える星の中には、生まれたてのものから、青年期の星、壮年期の星、間もなく終わってしまうものまであります。ちょうど渋谷の雑踏を一枚写真に撮ると、赤ちゃん・子どもから、恋人時代、若夫婦、老人まで、色んな段階の人間が写っているのに、似ています。
何年も子どもたちの現場にいると、同じことを経験します。子どもはもちろんですが、お母さんとしての色んなステージの悩みを、星々のように見ることができます。作文が書けないという悩みもその一つです。
花まる学習会では、作文は1年生の夏から書き始めます。毎年のことですが、この夏明けから秋の間くらい「うちの子作文が全然書けないんです」と悩む方が現れます。今年もそうでした。1年生の男の子R君。9月第一回目の授業では、真っ白な作文用紙を前に、問いかけへの反応もないくらい固まってしまい、テーブルの講師も困っています。
こういうときの方針は明確です。彼の頭の中は、無人の野原に、独力で堅牢優雅なお城を建てねばならないというような、「立派な作文」という幻影を前に、「無理だ」と硬直している状態です。完全な誤概念であり、あなたが「見えている」と感じるものはあなたしか見えていないんだよ。「聞こえるもの」も「浮かんでくる考え」もすべて、実はあなたというフィルターを通してしか聞こえないし浮かんでこないものなんだよ。ただそれを、素直に書き記せばいいんだよ。このことを、心から納得させるのです。
もちろん壁はあります。思い込みの壁。彼なりに構築した「良い作文」のイメージを、一度破壊しなければならないし、書いてみて褒められて、「え、これでいいんだ」と経験を蓄積し納得する過程が必要です。
その日は、不機嫌な顔で「書けない」「(書くことなんか)無い」ということばかり言って、泣き出してしまいましたが、私が横について、鉄則通り「何をした?」「何が見えた?」と質問することで、口頭で彼の言葉を引き出し、2・3行の文章を書かせました。
それが二週続き、お母さんからは連絡帳で、夏休みの絵日記なども困っていたことや、「花まるに行きたくない」と言い出したことなどが伝えられました。私にすれば予定通り。慣れたものです。過去にはこの段階であっさりやめてしまった方もいました。教育とは、本人が何らかの壁に当たったときが最大のチャンスなのに、残念なことです。
「行きたくない」は、まさに教育の重要ポイントなのです。なぜなら、乗り越えるべき課題が明示された証拠だからです。大抵は経験不足や思い込みで「できない」「きらい」と認識しているだけであり、克服できたときには、「あれ、私は何でこんな簡単なことを、できないって思ってたんだろう」と、あきらめていた自分を滑稽に感じるし、その成功体験は「何でもやればできるんだな」という自信につながります。
R君の場合、良かったのはお母様が、お迎えのときに相談してくださったこと。そこで一安心されたことが、空気を変えたと思います。実際連絡帳には「先週相談できて良かった」と書いてありましたし、母がホッとしたことは、すぐR君の心持ちに影響しました。その日は黙々と一人で5・6行はあるものを、書き上げました。机間巡視している私が目を合わせて「やったな!」と合図を送ると、ドヤ顔でガッツポーズをしてくれました。
小さいけれどこれがR君のまさに成長。10月はスラスラと書けるようになりましたし、11月には、連絡帳に「少しずつ文章をたくさん書けるようになっていて嬉しい限りです」とあり、さらに「3日ほど前から、突然『毎日日記を書く』と言い始め、気づけば毎日書いています。理由を聞くと『思い出になるから』だそうです」とありました。書いたことを喜んでくれたお母さんを見て、もっと喜ばせたくなったのでしょう。R君は、もう書くことが大好きな少年になりました。R君も嬉しい。私も嬉しい。相談してくれ、大らかでいてくれた、お母さんに感謝です。
花まる学習会代表 高濱正伸