『いのちの石碑』2014年10月
「高濱先生と行く修学旅行」は、5年生から中学生までの思春期に入った子どもたちに、特別な経験を与え、心を揺さぶり、自分の頭で考える人になってもらうことを願って作ったコースです。第一回の水俣から始まり、第二回は特攻隊、第三回は長崎の原爆と続き、今年は大震災で津波の被害を受けた海岸をバスで南下していく旅でした。
初日、リアスアーク美術館では、遺品や手紙の数々に触れました。子どもたちがあるモードに変わる。私も同じで、様々な考えが頭にあふれました。津波なんて、大小合わせると100年に一回くらいずつ、何度も来ていることを知りました。網でたくさんの遺体を救い上げている江戸時代だかの絵を見て、ああこうやって、圧倒的でかなわない大自然の猛威に直面しては、いつの時代にも「つながった命の生き残った側」がいて、協力し生き延び、次の命へ次の命へと引き継いできたんだなあと思いました。
志津川の防災庁舎、ちぎれた道路や線路、横倒しになって流されたビル、基礎だけが残されまるで広場のようになった旧住宅街…。その都度彼らは沈黙し、見つめていました。そういうものも、本当に良い経験になったのですが、最も大きな経験は「人との出会い」でした。
気仙沼で町の復興に専心している高校生。石巻で体育館が避難所になったときのリアルな感覚をゲームとして経験させてくれた教頭先生。奥さんとおなかの中の赤ちゃんを同時に亡くしながら「同情はいらない。ただこの状況に堪えられず命を絶つ人もいることを知ってほしい。強い人ばかりではない。同じ状況でも2つの人生がある。君たちには、何が起こっても、前向きに負けずに生きていける人になってほしい」と語ってくれた男性。山元町で周り全て流される中で小学校の二階のさらに屋根裏に逃げ込んで助かった子どもたちの物語を話してくれた語り部のおじいさん。ピンチに負けずに新しいイチゴ農業に邁進し「絶望の中に必ず希望がひそんでいる」と教えてくれたNPOのEさん。どの人も、これでもかというくらい子どもたちを釘づけにし、心を揺さぶってくれました。
中でも子どもたちの感想文に多く出てきたのが、女川の高校一年生Kさん。現地で学習支援をしているNPO法人カタリバの協力で引き合わせてもらえたのですが、小学校6年生の卒業式の練習のときにあの地震が来た、その様子をたんたんと語ってくれました。雪が降っていたこと。次々に避難してくる人たちのために、ただもう必死だったこと。「最高学年だから校庭にテントを立てたりしなければならず、悲しんでる暇はありませんでした」という一言が、子どもたちの中にしみ込んでいくのを感じました。
彼女は、津波が来た最高地点のポイントに1000年後も残る石碑を作ろうと、当時の中高生が始めた「いのちの石碑」にも案内してくれました。その碑にはこう書かれています。
東日本大震災で、多くの人々の尊い命が失われました。地震後に起きた大津波によって、ふるさとは飲み込まれ、かけがえのないたくさんの宝物が奪われました。「これから生まれてくる人たちに、あの苦しみ、あの悲しみを、再び味あわせたくない!」その願いで、「千年後の命を守る」ための対策案として、①非常時に助け合うために普段からの絆を強くする。②高台に町を作り、避難路を整備する。③震災の記録を後世に残す。を合言葉に、私たちはこの石碑を建てました。
ここは津波が到達した地点なので、絶対に移動させないでください。
もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください。
逃げない人がいても、無理やりにでも連れ出してください。
家に戻ろうとしている人がいれば、絶対に引き止めてください。
今、女川町は、どうなっていますか?悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています。
2014年3月 女川中卒業生一同
計画から実現まで3年かかったということでもあります。それにしても、10代の子どもたちがここまでの思いで、いくつもの壁を乗り越え(修学旅行先で募金活動をしたりして資金を集めたそうです)て、ただただ、まだ見ぬ将来の命のために石碑を建立したとは。そんな実行の中心の一人が語ってくれた言葉と行動力は、参加した小中学生に衝撃に近い何かを与えました。思春期は、親ではなく「斜めの関係」の先輩から、強い影響を受ける時期。他の誰でもないこのKさん一人に出会えた彼らは、幸せな子です。
※石碑はまだまだいくつも立てねばならないそうです。うちの子の所属する重度の障がいの子の絵の教室でも、展示会で買ってもらった絵の売上をいのちの石碑に寄付することになりました。11月24日のシャイニングハーツパーティーでも、Kさんたちの活動の紹介をするコーナーを設けたいと思います。ご家族でぜひおいでください。
花まる学習会代表 高濱正伸