西郡コラム 『今、何を伸ばそうとするのか』

『今、何を伸ばそうとするのか』 2015年6月

サマースクールで子どもたちと寝食をともにしていると彼らはいかにもばかばかしいことをたくさん、面白そうにやる。川に行けば石の上をぴょんと飛ぶ、石を集め川を堰き止めようとする。ひたすら思い思いの飛び方で川に飛び込む。ぷかぷかと浮いている子もいる。遊びの空間にはいると行動の大きい小さいはあるものの立ち止まっている子はいない。子どもは、ばかばかしいこと、無駄なことを散々やりたがるものだとつくづく思う。
 これが野球、サッカーや水泳の教室、習い事になるとそうはいかない。上手い下手があり、レギュラー補欠がうまれる。遊びが競技となり、技術や戦略を学び、面白かった野球やサッカーは修業の場になる。遊びだけでは物足りない、もっと上手くなりたいという、向上心や戦略が子ども自身に芽生え、上手くなるイメージが膨らみ、遊びが高まって競技になってくる。そして、遊びの段階にしろ、競技の段階にしろ、自分自身で描くから面白い。
 ばかばかしいこと、無駄なことを散々やる時間は、子ども時代しかできない、必要な時間。器用さやリズム感を担う神経系の発達は出生直後から急激に発達し、4~5歳までには成 人の80%程度(6歳で90%)にも達するといわれている(スキャモンの発育発達曲線)。大人から見てばかばかしいことでも、子どもは自主的に取り組んでいくことで脳みそを発達させている。
 教え込む前に、散々やらせる前に答を要求し、正解をまねさせる、大人のせっかちが子どもの意欲を奪い、発達そのものを阻害する。先に評価されると子どもは自分を出さなくなってくる。否定させることは敢えて出さない。どうせ認めてくれない自主性は引っ込めてしまう。形にならなくてもいい、試行錯誤を楽しむこと自体が子どもの発達だ。
 私たちは学習の効率化をめざし、鍛錬する。しかし、子どもを伸ばすという基点をどこに置くか、今の正解は受験時期で問えばいい、不正解であっても、失敗してもどれだけ子ども自身の頭で考え抜いたかどうかをみてやる方がいい。それが私たちの役目だ。
 単語の意味を調べ、自分の言葉で短文を書かせる課題を出す。一人ひとり作った文をすべて黒板に書き、そして私が評価する。「日本語としてはめちゃくちゃだ。しかし面白い。自分で面白がって作っているのがわかる。要は逃げ腰になっていない、自分で何とかしようとしているからいい。ただし日本語をもっと学べ」といった具合に指導する。
 目に見えることはすぐに指導しやすいが危うい。指導しなくてもやり続ければ、自己修正できることが多い。しかし、指導者は自分のアリバイを証明するため指導の跡を残す。それも誰もが見てわかる指摘。出来ないことを出来ていないといっても何も生まれない。どうしたらできるようになるか、自分で気付かせるにはどうするか。何を伸ばそうとするか。

西郡学習道場代表 西郡文啓