『塾今昔』2015年6月
創立以来22年、毎月書いてきた巻頭文に、初めて穴を空けてしまいました。
言い訳はまったくできません。申し訳ありませんでした。
この別紙に書いている姿は、ちょうど宿題忘れの子の居残りのようなもの。情けない気持ちをひきずりながら、一人画面と向き合っています。
せっかくですから、今日は、少々違うトーンで書いてみようと思います。
月刊誌「世界」6月号に、武雄市の官民一体型学校について書かれた、8ページに及ぶ記事が掲載された。
正直いつ取材されたかも忘れているくらいだが、前屋毅というフリーランスの記者は、これまでテレビ・ラジオ・新聞などすべてのメディアで扱われたどの取材よりも、私たちの目指すものを深くとらえてくださった。
官民一体というが、成果はどう評価するのか、関係者にインタビューすると、役所も校長も「全国学力テスト」をあげるけれども、結局旧来の学力テストと同じ指標では、「メシが食える大人」=「多種多様が本質の社会を積極的に生きていく力のある大人」を目指す花まる学習会のノウハウを入れた意味はないではないか、という趣旨だ。
その中に、面白いことが書いてあった。一昔前に取材した、今大手になっている学習塾の経営者は、みな「儲かる」がモチベーションだった。合格率の高さを看板にしたほうが塾生を集められたし、そうしなければ大きな儲けにはつながらなかった。そしてそこが、学習塾が批判される一因になっているのも事実だ、というものだ。
今私が知る若手の塾長で、儲かるから塾を始めた人は皆無だし、それを話題にしたら大笑いになるだろう。みな、子どもが大好きで、自分なりに教育に問題意識を持ち、夢を追っている。しかし、60歳より上の世代からは、「段ボール箱が札束で一杯になった」というような「伝説」も聞いたことがある。そんな時代も確かにあったのだろう。
そういえば驚く経験をしたことを思いだす。
数年前にTVのコメンテーターとして呼ばれたときのこと。名物司会者氏には子息がいた。私が30年近く前に働いていた、某私立小中高校の児童生徒専門の塾には有名人の子も通っていて、彼の息子も在籍していた。直接は教えていないが、隣の教室でよく教わっていて、塾長が「あれさ、○○○○○の息子なんだよ」と、何度か言っていたのでよく覚えているのだ。その親の番組に呼ばれたのは奇遇だなと、前もってお話ししたプロデューサーさんに伝えておいた。
さて番組開始まで数分、居並んだ私たちの前に彼は登場して、朝の挨拶をした。「いやあ、息子がお世話になったそうで」と、盛り上がるかと想像していた私に驚く言葉が浴びせられた。「息子に聞いたが、そんなところ行ってない。うちは、塾は行かせない方針だったんだ。塾というものは一切信用していない!」。
多分子育てのことは、亡くなった奥様にまかせっきりだったのだろうし、もしかすると奥様は夫に内緒で連れて来ていたのかもしれない。それにしても、呼ぶだけ呼んでおいて、お客様である人間にそんな言葉はないだろうと、怒るというより、珍しい動物を見つけた感覚で、ただ凝視したことを覚えている。あとでよく考えたら、私は嘘つき扱いされていたのだ。蛍光灯というか、人から意地悪や皮肉を言われても、大分たってから「あれは悪口だったのかな」と感じるようなところが、しばしばあるのだが、今回もそうだった。
しかし、落ち着いてから感じたのは、怒りではない。あの言い方は、本人は信じ込んで言っていた。「塾は一切信用してない!」と言った価値観は、本気だったのだ。「昔の塾って、こんなにも蔑視に近い見方をされる職業だったんだな」と思った。そこには、○○省の管轄もなければ参入障壁もない。言わばフリーの殴り合いのような業界だったわけで、偏見もあっただろう。しかしそう言われても仕方ない業界のダークな部分があったのも確かなのだろう。
花まる学習会は、そんな濡れ手に粟の時代、淘汰の時代が過ぎて、大手寡占化が落ち着いた大分あとに、スタートした。1DKのボロアパートで毎日問題を手作りし、何年も黒字にならない日々だった。でも、それが良かったのだと思う。ボンボンの世間知らずの私が、その最初の数年で、とても鍛えられたと思うからだ。
また繰り返すが、現在会う若手塾長たち、今塾業界に就職する若者たちに、金儲けを第一に考える感性は微塵もない。むしろ本当にピュアで志高く可愛い子が多い。公教育への参入も、大先輩にあたる人たちは「どうやって儲けんの?ビジネスモデルが分からないな」と言うが、若者たちはただ純粋に「いいですね!」と言ってくれる。
時代はすっかり変わったのだ。バブルはおろか、好況を知らずに育ち、3・11を目撃した若者の中には、昔とは一味もふた味も異なる気高い若者がたくさん登場している。真横に引きこもる人たちを見ながら、人生を見つめ、よく生きようと社会企業家などに、続々と人物群が生まれていて、それはまばゆい未来を感じさせるものだ。
それしか知らなかったから株式会社でスタートしたけれども、花まるはもともと極めてNPOや社会企業に近い存在だったのだと思う。講演会やおたよりの文章で、今ブームの松岡某のように、若干暑苦しいくらいの思いを訴え続けていたら、気づくと、お母さんたちが応援してくれるようになっていた。「うちでやりなさい」と言ってくださった幼稚園の先生方、口コミで広げてくださったお母さんたち、本やTVにつなげてくれた方たち・・・、そのおかげで、淘汰の激しい塾の世界で、何とか20年以上も生き残ることができた。
潮流はいよいよ激しさを増しているし、時代の先を読み損ねたら、いつ飲み込まれるか分からない。しかし、それを「面白いね」と言い合える若者たちと、「本当に子どものためになるのか」と議論しあい、「わが子自慢」をしあい、大笑いしながら仕事ができていることは、ありがたいことだ。
いよいよまとまった睡眠時間がとれない日々だが、今来ている若者が、将来にわたってそれぞれに輝くように育てることが、この年齢の私の最大の任務であろう。つい先日も、ゼロから一緒にやってきた西郡(西郡学習道場代表)と、「いつ死んでも悔いはないよね」と言い合ったばかり。次世代が輝くように、獅子奮迅、一日を燃焼していくのみである。
とまあ、始末書や反省文を書く気持ちで、書きました。
本当にすみませんでした。
花まる学習会代表 高濱正伸