松島コラム 『教育経済学のはなし』

『教育経済学のはなし』 2015年10月

最近、教育をテーマにした議論が活況のように感じる。教育の仕事をしていることから、そうした情報が多く入ってくることもあるだろうが、あちこちのメディアで“教育”という言葉を目にする。どこかで聞いた話だが、教育や受験の特集をすると雑誌の売り上げが伸びるらしい。そもそも教育の専門家でなくても、自分自身の経験から一家言持っている人も少なくない。今も昔も関心の高いテーマである。
 そんな中、教育関係者の間で最近読まれている本に、『「学力」の経済学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)がある。著者である中室牧子氏は慶應SFCの大学院の准教授で、教育経済学が専門である。教育経済学というのは、教育を大規模なデータをもとに経済学の理論や手法を使って分析する学問。たとえば、「ご褒美で釣ってはいけないのか」というテーマをデータをもとに科学的に分析するのである。詳細には触れないが、この本で取り上げられている検証結果には、私自身が現場で得てきた経験知を裏づけしてくれるものも多かった。ただし、それが正しいとか正しくないということではない。ときにデータは現実的で残酷であり、またすべての教育的事象を科学的に説明できるわけではない。100人の子どもには100通りの育て方があっていいし、何よりも家庭の方針がぶれないことが大切である。
 さて、この本の中に、幼児教育の重要性が説かれている。アメリカで行われた「ペリー幼稚園プログラム」のデータをもとに、幼児期にどんな能力を高めることが大切かを分析している。「ペリー幼稚園プログラム」は有名な教育実験であり、私も別の本で読んだことがある。アフリカ系米国人の3~4才の子どもたちを、ランダムに入園を許可した子どもたちと入園できなかった子どもたちに分け、前者に「質の高い就学前教育」を提供した結果、その後の学歴、年収、雇用などの面で大きな効果を上げたというのである。ただし、この取り組みを通して注目すべきは、IQでは小学校入学時点で差が出るものの、8歳くらいまでにはその差がなくなり、こうしたIQや学力テストで測れる「認知能力」に対して、「忍耐力がある」「社会性がある」「意欲的である」といった生きる力のような「非認知能力」のほうが、人生の成功においてはきわめて重要であると、研究者が強調していることである。また「誠実さ、忍耐強さ、社交性、好奇心というものは、人から学び、獲得するものである。」とも言っている。中室氏はその中でも「自制心」「やり抜く力」が特に重要で、年齢的な閾値(いきち)はあるものの、成人後までこれらの「非認知能力」を鍛えて伸ばすことが可能であると言っている。また、神戸大学の西村教授らの研究でも、4つの基本的モラル(ウソをついてはいけない、他人に親切にする、ルールを守る、勉強する)をしつけの一環として教わった人は、まったく教わらなかった人と比べると、年収が86万円高いということを明らかにしているという。
 今大学入試改革に向けて高校の内申書についての見直しが検討されている。国立大学の2次試験や私立大学の個別試験が、高校時代の部活動や内申点を組み合わせた「総合評価」に変わるためである。内申書は、新しい入試制度では重要としつつも、筆記試験だけでは測りにくい、意欲や社会性などの生きる力を評価する補足資料として使われる可能性がある。いずれにしても、「非認知能力」の重要性が日本の教育界でも改めて注目されていくのではないだろうか。
 さて、この『「学力」の経済学』の一部内容を引用して、古市憲寿氏が『保育園義務教育化』(小学館)という本を出している。古市氏らしからぬ題名と表紙の写真にひかれて購入したのだが、中身は彼らしくてとても面白かった。保育園の「義務教育化」と聞くと、乱暴な意見に聞こえるが、待機児童や子どもの貧困問題などを考えると、奇策というより妙案に近い。賛否両論、課題も多いだろうが、海外ではハンガリーをはじめ、乳幼児期の義務教育化が実施、検討されはじめている。日本でもそのような動きが出てくるなら、ぜひ花まるメソッドの導入も検討してほしい。
 ただ、保育園も幼稚園も一切拒否して行かなかった私としては、義務教育になったとたんに「行かせなくちゃ!」という母親のプレッシャーが大きくならないか、ちょっと心配である。