Rinコラム 『表現すること』

『表現すること』2016年1月

子どもたちが本当の意味で自分の表現と向き合うために、私が大切にしていることはふたつあります。
1「見守る」
 思い通りに行かないときに、助けをすぐ求めるのか、自分で解決しようとするのか。(そのどちらも間違いではありません。)時間内に終えられるのか。(終えようという思いで取り組めるのか。)どんな状況でも楽しめるのか。仲間と助け合い、コミュニケーションをとろうとするのか。制作過程は、自分の心と向き合い、頭で考え、手を動かして工夫する試行錯誤の楽しさに満ち満ちています。そして子どもたちには、それぞれの成長過程でのハードルがあり、我々はそれぞれに応じて手助けや指導をして、彼らの良い部分を引き出しながら‘見守り’ます。制作中には、思わぬハプニングや思い通りにはいかない体験、心躍る発見があります。偶発的に起こるそれらの出来事や経過も含めて、それが作品です。
制作過程においての「見守る」。それは彼らの、「何を素敵だと感じるのか」という問いを、自分自身に尋ね続ける経験を、積み重ねてあげることであり、同時に、彼らの制作過程の、「どこが素晴らしいのか」を言葉にして伝えることです。
2「遊びゴコロ」
 ひょうきんな自分、というものは誰の中にも存在します。それは誰かを笑わせたい、喜ばせたい、驚かせたい…というような、相手が幸せであることに喜びを感じる、社会的な生き物である人間の、根源的な欲求。
 子ども達は表現していく中で、必ず自分の中の‘遊びゴコロ’に気がつきます。そして最終的には最も重要な、自分を楽しませたい、という欲求に従ってゆきます。その瞬間こそが、じゆうに「表現する」ということです。他者をイメージし、しかも自分を喜ばせる。それが同時にできることの追求はまさに、よい仕事をしているときの我々オトナの理想ではないでしょうか。
 「見守り」ながら子どもたちの「遊びゴコロ」をいつも引き出せるつもりでいる。それが、アーティストでありながら教育者として生きる私が大切にしていることです。(花まるメソッドでは「知の共有」と呼びますが、)制作過程での「感性の共有」をやり続けることで、自然と、例えば仲間の作品を並べて鑑賞するとき、どう配置すればよいか、どう配置したいのかを、自分に問い、自分たちで工夫しはじめます。それぞれの作品がみんな違っていて、みんないい。すべての創作物に敬意を払うようになります。相手の想いや表現を尊重することを、体験として学び、多様性を認めるこころが自然と育まれていくのです。

表面には出さないけれど、内面は強く激しく動いていた。夢中になって表現しているとき、評価するオトナのことばで邪魔なんかされたくなかった。「やりたいようにやれることが確保されている」と、思うまま表現できた、その快感。「こうでなければならない(教師側の言葉でいうねらい)」に気づいてしまうと、それはもう遊びでも表現でもない、先生を喜ばせるためのゲーム(夢中にはなれないもの)になりさがった。そんな子どもだった私自身の心の叫びを、子どもたちと今、浄化し続けているのかもしれません。

レロ由実