『シンプルに生きる』2017年5月
塩沼亮潤というお坊さんがいます。彼は「大阿闍梨」と呼ばれるのですが、それは、奈良の吉野山金峯山寺千三百年の歴史の中で、二人しか成功したことのない「大峯千日回峰行」を満行されたからです。吉野の金峯山から大峯山まで往復48キロ、高低差1300メートルの山道を、雪のない夏の4か月間、毎日、9年間歩くという、考えただけでも気の遠くなる修行です。病気だろうが睡眠不足だろうが一度始めた以上休む日があってはならず、中断せざるを得なくなったときのために自害する短刀まで持って行くのだそうです。
さらに大阿闍梨は、「四無行」という苦行も満行されています。それは9日間にわたって「断食(何も食べない)・断水(水分を摂らない)・不眠(眠らない)・不臥(横にならない)」をやり遂げることです。どんな感覚になるのか、想像すらできません。
そんな高僧とお話ができるとなったとき、私は特別な霊能力や透視力などを身につけている方なのだろうという先入観を持っていました。ところが話せば話すほど「普通だな」と感じました。「高濱さんは私に似ている」と言ってくださるなど、とても波長が合うし、ご一緒する時間は幸せなのですが、どこかで拍子抜けしたような感覚を持っていました。
その彼が、ある雑誌でビートたけしさんと対談をしていて、膝を打ったので、紹介します。
たけし氏は、まさに私と同じ肩透かし感があったと言います。そんな稀有な修行を成し遂げたらどんな霊力を持っているかと思ったら、なんだ普通ではないか。それに対し大阿闍梨は、まさしく修行の果てに見出したものは、特別なものではなくシンプルな真理だったのだと語ります。
たとえば海外に行くと「あなたはジェントルマンだ」と褒められるそうです。
「その理由を聞くと、褒められる要素は小さい頃に親に教えてもらったことばかりです。食べ物ばかりではなくて、どんなことに対しても好き嫌いを言わない。目上の人をきちんと立てる。他人に不快な思いをさせない。嘘はつかない。約束を守る。返事や挨拶をきちんとする。こういう基本的なことを褒められて、山で修行したことは褒められない(笑)。大切なことはシンプルなことだと思います。」
(新潮45 2017年3月号)
千日回峰行の荒行の果てにたどりついたのは、マンガのような霊力ではなく、シンプルなことだった。この重みを理解できるのは、ある程度年齢も経験も重ねた人だけかもしれません。私だって、20年前に言われても「だから何?」と思っていたでしょう。
長年生きていると、テストの成績は普通だとしても尊敬される人がいます。一方で、頭が良いしパフォーマンスは上手だけれど信用を失う人もいます。それは凡事徹底の違い。特別なものではなく、朝遅刻せずに来ている、爽やかな挨拶ができる、嘘をつかない、他人への思いやりがあるなど、まさに小さい頃親に言われたことを、たんたんと積み重ねられるかどうかです。
「人生で必要な知恵は、すべて幼稚園の砂場で学んだ(ロバート・フルガム)」という本がベストセラーになったことがありました。似ていますね。本当に大切なことは、幼い頃に教わり終わっている。しかし、逆に言うと、せっかく誰にでも見えていた真実なのに、成長とともに多くの人が見失うのも人間世界の現実です。
なぜ見失うのでしょうか。それを見極めておくことも、生きる力と言えるかもしれません。まず考えられるのは、保身。このところの世間の不祥事を見るに、個人というよりも組織の保身のために、あるはずの書類を破棄したと言い張ったり、日報がなくなったと言ったり、明らかな虚言を弄し、結果として信頼を大きく毀損する官庁の事例がありました。一人ひとりは善人でまじめでも、組織としてがんじがらめになって、保身のためにそれが正しい人の道ではないとわかっていながら嘘をつく。そして結果信頼を失墜させる。何度も目にしてきた光景です。
虚栄心も大きな要因でしょう。私は最近体調を崩し、24年目にして初めて授業を病欠しました。「もう若くないぞ」「いい加減、睡眠を削るのはやめた方がいいぞ」と、医師である友人に忠告を受け続けてはいたのです。しかし、3時間睡眠をやめられませんでした。病気になるまで。分析するに、それは、例えばクッタクタの表情で「昨日も寝てない」と言ったときの目の前の人の「ええ?!大丈夫ですか」とか「すごい体力ですね」などと言われるときの、満足感に近い感覚が支えになっていたと思います。「早寝・早起き・十分な睡眠」も幼児にしつけられる課題なのに、私は身体の声など聞かず、どこかで自分を大きく見せたい虚栄心でそれを破ってしまい、病という警告を受けたのです。
嫉妬心というのも人の道を踏み外させる魔物です。「出る杭は打たれる」という言葉に代表されるように、少し注目を浴びる存在になると、事実に反する噂や中傷をばらまかれたりネットに書き込まれ拡散されたり、テレビや週刊誌で袋叩きにされる。この手の事例は、もうそれは山のようにあふれていますよね。その根本は嫉妬でしょう。「他人を思いやる」という幼き頃に学んだ人の道の、真反対の獣道に転がり込む。真理の道を踏み外しているのですから、中傷した当人は当然いつまでも幸せになんてなれません。
このほかにも、「強欲」「心でなく理屈で考えすぎてしまうこと」などなど、落とし穴はいくつも考えられますが、いずれにせよ、
”私たちは真理をとっくにわかっているのだ”という事実は、自信を持って確認したいことです。
新学期がスタートしました。御多分に洩れず、支持政党なし・無宗教の私ですが、大阿闍梨との出会いをきっかけに、足元を見つめてシンプルに生きたいと思い直しました。
子どもたちは、誰よりも周りの大人の生き方・行動に影響を受けます。親自身が、自分の両親に教わったシンプルなルールをあらためて見直し、ありのままの心で、平安な日々を送れる一年にしたいものですね。
花まる学習会代表 高濱正伸