『もまれ体験と遊び心』2013年7月
毎月のこの巻頭文を本にしようという申し出があり、20年分を整理していたら、19年前にいじめ問題が大きくなったときの一文がありました。そこには「社会からの突き上げで大騒ぎしているうちは鳴りをひそめていても、また繰り返されるであろう」という意味のことが書かれてありました。19年たった今、その通りだったなと落胆とともに思います。
当時書いていた理由は主に二つ。①TVはじめメディアの報道の本質が、誰かエジキを作り出すいじめそのものを繰り返していること。②それを支えているのはユーザーニーズ、つまり視聴者がそれを望む本性(誰かを叩いてスッキリしたい暗黒面)を持っているから、そうなっていること。①については、良心的なスタッフも大勢いるし、素晴らしい番組もあることは認めつつ、根本的には①も②もそのまま言い切れるでしょう。何だか世の中は、人を断罪することばかり上手になったようにも見えます。いずれにしろ「事件化」→「つるし上げ騒ぎ立てる」を繰り返していても成果がなかったことは確かです。私たち大人は、子どもにとって「モメごとはコヤシ」ということを噛みしめねばなりません。
つい先日、小学校で4年間同じクラスだった友人Yと40年ぶりに会って飲みました。大宮近辺で水泳の熱血先生として有名で、全国優勝したこともある一方、下のレベルの子にも分け隔てなく情熱を注ぎこんで、不良も一目置く「とにかく怖い先生」だったと、同席した教え子の二人(今は立派な社会人かつ親)から聞きました。サボりたくて「微熱が出ました」と言うと見抜かれ睨み付けられて「泳げば治る」と言われたそうです。今ならその一言がネットで流されニュースになったかもしれません。
しかし、そんな一面理不尽とも言える指導の結果はどうなったかというと、水泳部の教え子は「全員メシは食えてますね」とのこと。教育のあり方は一つではありませんから「だから体育系こそが正しい」とは言えませんが、この結果は重みのあるものではないでしょうか。愛情はたっぷり、しかし厳しく。「思春期の師匠」として、教育の芯を担う熱い仕事をしてきたY。それぞれの道を歩きながらも、同じことを大切に生きて来たことが分かり嬉しかったです。
さて一方で、近い人物の自死も経験しました。まじめで人柄も最高なのになぜ…。心の病気にかかっていたに決まっていますし、病が最後の行動をとらせたにしても、真相は誰にも分かりません。ただ、かつて亡くなった私の知人・友人たちを頭に描くと、思い当たる共通項があります。責任をまともに背負う誠実さがある一方、ストレスをいい加減で吹き飛ばすあるいはすり抜ける「遊び」が足りなかったことです。「ま、いいか」ができないというか、凝り固まりそうな思いを、冗談で笑い飛ばすことができない。少なくとも、「人を笑わせるタイプ」ではない。私が知っている限りでは、幼いころ「良い子」でいようとした人が多かったです。弟や妹に母を奪われ、「褒められるために勉強でがんばるなど、良い子を演じるのをやめられなかったんだなあ」、という例もありました。
まじめが悪いというのでは全くありません。土台としてもちろん大事。しかしまじめの仮面をパカリと割ってバカになれたり、周りの人を大笑いさせるような遊び心もとても大切だと言いたいのです。人生を満喫し楽しんで生きている人は、遊び心に満ちています。そしてそれは、遊び心を発揮して「受けた成功体験」の積み重ねで培うものです。
かつて、M君という一年生の男の子がいました。勉強はできるのですがカタブツという表現がぴったり。冗談も言いません。本当は、彼のような子は「受ける自信がない」だけなのです。ところが2年生の秋だったか、ちょっとしたお下品ギャクをテーブルで言ったらバカ受け。紅潮した顔に喜びが表れていました。「優秀」の道を歩いていた彼が「魅力的」の道に進路変更した瞬間でした。こういう小さなステップが本当に大事で、それ以降学年が上がるにれて、むしろクラス中が彼のギャグを待つような人気者に変わっていきました。ちなみに、他ならぬ私自身も同様の経験で変われた一人です。
さあ夏休み。経験のチャンスです。第一に無事でありますように。そして、子どもたちを鍛えたくましくする、適度なトラブル体験・もまれ体験・不自由体験に恵まれますように。そして異学年の友との空間で笑わせ笑うやりとりの中で、健やかな遊び心が育ちますように。
花まる学習会代表 高濱正伸