『あそぶ力』2013年12月
先日、チューリップの財津和夫さんの特集番組があって、引き込まれました。純粋に音楽一筋に生きた人生が、病気のことなどもさらけ出して描かれていて、格好良かったし、こんなに面白い番組は久しぶりだなと感じました。こんなに面白いと感じた理由は、もちろん私自身の思い入れです。
中3の夏に「心の旅」がヒットし、リクエスト葉書というものを初めて出しました。コンサート会場の市民会館の裏口から侵入し、楽屋の財津さんにサインをもらったこと、宿まで押しかけて一緒の炬燵で話してもらったこと、影響を受けてバンドを始めたこと、高1の夏合宿の夜に「青春の影」を歌って怖い先輩たちに褒められたこと…。思い出はつきません。その時代の空気とともに、好きだった人、好きになってくれた人、打ち込んだ野球のことなど、映画を観るように鮮やかに蘇りました。
さて私は、この数か月「愛着」「こだわり」というものに興味を持っています。一言で言うと、人は理屈ではなく大半、愛着やこだわりでこそ動いているなということです。恋愛に陥って寝ても覚めても相手のことしか考えられないという状態は、高みにおいては一つのピークでしょう。また親が子を思う気持ちは、その盤石さにおいてもっとも強いものかもしれません。それらほどでなくとも、実に多くのこだわりで、人は今日の行動の一つひとつを決めていると思います。「これ欲しい!」も「いやだ!」も「ちょっと、これ私のなんだけど!」もすべてこだわりです。ファンであること、怒り、感動の涙、こみあげる愛しさ、家族、ふるさと、祖国、テロ、戦争…。どれもこれも「こだわり」のなせる両面です。
離婚の原因をご存じでしょうか。専門家に教えてもらったのですが、相手に少々変わった趣味(いい年してフィギュア好きとか)があったところで、それで別れる人はいないのだそうです。決定打は「常識のぶつかり合い」だということ。つまり「こんなこと当たり前だろう」とお互いが思い込んでいること、例えば「食べ方」「作法」「季節の行事」などで食い違うと、許せなくなるのだそうです。
「常識」とは「真実」ではありません。国にも地方にも個人によっても異なる「文化」であり、煎じ詰めれば「こだわり」です。しかし、そのこだわりを踏みにじられると人は激怒する。「挨拶がないってどういうことだ!」というように。「常識無いよね」は、もっとも冷酷な攻撃であったりします。宗教間の対立がいったん起こると収拾がつかなくなるのは、最強のこだわりの対立だからこそでしょう。強い愛は強い憎しみに反転することもあって、自らの中にある「こだわりの運用」というのは、幸せに生きるための大切な課題かもしれません。
まさに私が今「こだわり」にこだわっているのですが、その理由は、本業である学力指導の面で、とても重要な視点だと気付いたからなのです。拙著「小3までに育てたい算数脳(健康ジャーナル社)」において、「思考力」を二つに分類しました。「見える力(補助線や立体の裏側など見えないものが見えるイメージ力)」と「詰める力(論理的な破たんなく、正確に最後まで詰め切る集中力)」です。おかげさまで、専門の先生方を中心に、温かい評価をいただきました。
ここ数年、私立中高の先生や才能ある若者との研究会を開催する中で、もう一つあるよねという話になりました。イメージが見えて、詰めている中で、例えば「あれ?これだと周り道になっちゃうかな」と感じた瞬間にスッと自分のこだわりから離れられる柔軟さです。頭の良い悪いを議論すると、必ずこの解けない状態の子の「これは違うかもと思いつつ、その方法から離れられない、こだわりによる自己拘束で結局解けない子」の例が出ます。この、どこか自分を俯瞰する位置からいつも眺めていて、フレキシブルに道筋を変更できる能力というのは、思考力の重要な柱だと考えています。別解を楽しめる子は最高レベルの能力がある子ですが、そこでもこの、やわらかーく最善の道にいつでもスイッチできるセンスがものを言っています。私はこれを第三の思考力「あそぶ力」と名付けました。ハンドルの遊びに近いかもしれません。キツキツこだわらないで、自己をモニターし柔軟でいられる頭脳です。
財津さんの歌でよみがえった「良い思い出」は、すべて「こだわりの思い出」です。人が無意識にしてしまうこだわりによって、人生に素晴らしい彩りが加わることは間違いありません。しかし、何かの壁に当たったときは、そういう縛りをスッと解いて発想を変えられる能力が、現代の様々な場面でも必要なのではないでしょうか。
さて、年の暮れです。この一年間、本当にありがとうございました。私は、いつものように「また来年も子どもたちといられますように」というこだわりを胸に、年を越すことにします。よいお年を。
花まる学習会代表 高濱正伸