『今、何をやっている』2012年12月
小学4年生の授業。9-(15-3×2-7)の式の解き方を初めて解説する。横に=を揃えるのではなく下に=を揃えていく。数字は一定の大きさ、重ならない、見やすく。目で確認できるから計算ミスが減る。頭と目と手を一体にすること。計算の順番は( )、次に×÷、そして+-で進める。鉛筆は持たず、聞くことに集中する。計算の手順通り、まず( )の中の×÷、式は=9-(15-6-7)、そして+-、式は=9-(9-7)、=9-2、答えは=7。もう一度板書を辿り、( )、×÷、+-の順番、すべて下に書き、=を揃えることをさらう。一行一行十分に時間をとって説明、頭に入っているかどうか確認し、一旦、9-(10-3×2)だけ残してすべての板書を消す。そして、自分のノートに一人で実際にやってみる。
漢字の練習。新しい漢字を四つ、その訓読み、熟語を各三つ、合計12個の熟語や訓読みが黒板に並ぶ。画数、部首、意味について辞書を引くことは宿題。字の形をその場で覚えるように時間を取る。そして、黒板の文字を隠し、プリントを裏返しにして、12個の中から四つを口頭で出題する。
この二つの課題でやりたいことは、その場で理解する、覚えるということ。この瞬間の把握する力の優劣が大きな学力の差になってくる。先天的な能力の差が大きいのも事実、が、それを問うても意味がない。学ぶ習慣で能力の差は補える。子どもたちは多くの時間、学校で学ぶ。朝は8時過ぎから午後3時、4時まで、さらに小学6年、中学3年、高校3年、大学、社会人と常に多くの時間、学び続けている。だから、その瞬間瞬間での理解の差は微々たるものでも積もり積もって大きな学力差になってくる。
学力は授業中にどれだけ集中できるかにかかっているが、すべて集中して聞くということではない。すべてではもたない。先の計算式の学習でも習うのは精々15分程度、その後は実際に自分でやって出来るかどうかノートをチェックし出来ていない生徒は再度指導する。さらに類題で確かめる演習の時間をとる。授業中に新しいことを聞く、習うは決して多くの時間を要しない。だから、ここぞという時にしっかり聞けるかどうか。それには未知と既知の基準を持っているかどうかになる。未知のものを敏感に察知する。指摘したからといってすぐにできる子ばかりではない。今までの短い人生で身に付いた習性はなかなか頑固だ。就学以前、低学年時にこそ好奇心や興味が強く働くような育て方をしたか否かが後々の授業を聞く基礎となる。
冒頭の計算式の学習や漢字の学習は、4年生だから十分に時間を取って瞬時の意識の働かせ方を訓練する。高学年の学習の入り口に立つ学年だからこそ、今後一生学び続ける学びの基礎をしっかりと根付かせたい。学年が上がってくると学習量も増え、そんな時間はなくなる。しかし、いくら学年が上がっても瞬時に意識を働かせることが出来なければ教室でお客さんになってしまう。その違いが顕著に出るのは中学生だ。小学生の段階で学校のテストは比較的易しく点は取れる。学力差は現実味を帯びてこない。だが中学生になると成績は数字で示される。しかも中学生は忙しい。朝から部活、学校では先生が入れ替わり9教科の授業、そしてまた部活、さらに運動会、文化祭、生徒会活動も間に入ってくる。この多忙のなかでも一定の成績を出せる、出せない生徒の学力差は一体何が違うのか。もちろん持って生まれた能力も大きいが、先ほど述べた通り、仕方がないものを考えても意味がない。できることは何か。授業中に理解しているか否か。学校の授業で習い、学校のワークをやっていれば、仮に定期試験の勉強をしなくても平均点は取って欲しい。定期試験は復習テスト、習った学習から出題されるから。
瞬間瞬間の理解力というのは、身についている子は身についてる。しかし身についていない子は、そう簡単には身につかない。何事にも興味を示す、好奇心を持つこと。高度の学習だけではない、日々の生活、日々の授業においては興味、関心を引き立てることが先決する。学校の授業でも簡単そうに見えて、なぜ、どうしてと面白く聞くことができているか、できていなくてもそういう頭を作ろうとしているか。例えば、朝顔の観察ひとつとっても生命の不思議を感じるか否か。成長のプロセスを学び取ろうとしているかどうか。どんな内容でも簡単そうに見えても一歩踏み込めば奥は深い。漫然と授業にいるだけになっていないか。興味、好奇心、向上心を持って授業に臨み、その場その場で理解する、覚える、考える習慣を身につけさせてやらなければ、これからの膨大な時間を要する授業も無駄にする。学習生活の充実はない。
中学受験、高校受験期の学習量が増えれば、長時間の学習も必要になってくる。しかし、その学習のパーツを築いているのはその場その場の理解力。簡単なことで、今、何をやっているのか、今、それに没頭するだけ、これを意識させることが実に大きいことだと実感している。受験学年を除けば学習塾ではせいぜい週に1、2回2時間程度の授業。だからこそ、この授業で授業の受け方の雛形を作る。その雛形を学校で生かす。圧倒的に学校で学ぶ時は多いのだから。
生徒たちの責任でない。そういう育て方をしない大人、興味の持てる授業をしない私たち教える側の責任でもある。