西郡コラム 『音を表現する』

『音を表現する』2013年2月

音読は、まず身体から入る。運動選手と同じで、ウォーミングアップ。身体をほぐすというのは緊張した身体、身体全体でなく、より細かく身体の各部位を意識して解放すること。弦楽器の音を共鳴させる装置が身体、共鳴させるだけの身体にするには身体の詰まっているのを解きほぐす。次に姿勢をつくる。姿勢は息の道をまっすぐにするため、体が丸まっていたり曲がっていたりすると息の道は滞る。音読のいい姿勢は息の道が直線になるようにする。次に「あ、い、う、え、お」の口の形をつくる。口を開かずとも音は出るが聞き取りにくい。明瞭な音を出すには、口の形をつくること。口の周りは固い、意識的に口の開閉をしておかないと固まった口の形しかできない。音は不鮮明になる。実際の練習はばかばかしいほど単純明快、音を出すことだけに集中する、他のことは考えない。

「あ、か、さ、た、な…」「い、き、し、ち、に…」「う、く、す、つ…」「え、け、せ、て…」「お、こ、そ、と…」、「あ、あ、あ、あーあ、あーーーーあ」「い?い?」「え!え!」「う~~ぅ、う~~ぅ」「おおおおおーーー」「ぴぽー、ぴぽー、ぴぽー、ぴぽー」「し、せ、さ、そ、す、さ、そ、し、せ、さ、そ、す、さ、そ」「は、は、は、ひ、へ、は、ほ、ふ、は、ほ、ほ、ほ、ほおお」「べららららんめい、ばららららんめい、ぼららららめい」「がおー、がおー、きゃー、きゃー、にゃー、みゃー、にゃー、みゃー」…。ばかばかしいけれどだんだん楽しくなってくる、体をゆする子もでてくる。最初に出した音と散々遊んだ後の音とは明らかに違ってくる。子どもたちがそれを実感できる。音が身体で共鳴し、口の周りがスムーズに動く。集中して声を出している彼らがいる。

「霧がはれて、お日さまが丁度東からのぼりました。夜だかはぐらぐらするほどまぶしいのをこらえて、矢のように、そっちへ飛んで行きました。『お日さん、お日さん。どうぞ私をあなたの所へ連れてって下さい。灼(や)けて死んでもかまいません。私のようなみにくいからだでも灼けるときには小さなひかりを出すでしょう。どうか私を連れてって下さい。』行っても行っても、お日さまは近くなりませんでした。かえってだんだん小さく遠くなりながらお日さまが云いました。
『お前はよだかだな。なるほど、ずいぶんつらかろう。今度そらを飛んで、星にそうたのんでごらん。お前はひるの鳥ではないのだからな。』」

「よだかの星」のラストシーン。「よだか」の台詞と「お日さん」の台詞を子どもたちに演じてもらう。シチュエーションを描いて読む。「よだか」の今の気持ちを想像して読む。それに対する「お日さん」の態度を想像して読む。声優の当てレコ、吹き替えと決定的に違うのは場面そのものを子どもたち自身が描かなくてはいけないことだ。だから、絵を描かせて音読する。“立体的に”読む。しかし、固定観念で読むと読む音が狭まる。そういう場合は、「よだか」は決して笑っていることなど考えられないのだが敢えて笑いながら読む。泣き笑いのような、最後の最後、よだかは笑うしかない、といった新たな発見も出てくる。この発見が面白いとなり、次の想像的な読みの意欲になる。「お日さん」もまさに太陽、大きな包容力のある人物を想定すると、物言いはありきたりになる。一羽の鳥にかまう時間がない、せせこましくイライラした「お日さん」にあえて設定して読むと、違う世界が広がる。場面をどう描くかで音は変わってくることを子どもたちは実感する、面白がる。そして、子ども自身が、私たちも思いもよらぬ創造性をみずから発揮することもある。

「24日午後7時35分頃、岡山市北区金山寺、天台宗寺院「金山寺」=松原宏澄住職(76)=から出火しました。重要文化財の本堂(木造平屋約165平方メートル)を全焼し、近くにあった物置も焼いて、約2時間半後に消えました。けが人はありませんでした。」

記事の書き出しをアナウンサーのようにという指示だけで一度、音にして読んでみる。それから内容を確認する。「何があったの」「火事があったんだよ」「いつ」「24日の午後7時半ごろ」「どこで」「岡山市で」「何が燃えたの」「お寺が。しかもそのお寺は重要文化財なんだ」「あら、そう」「でもけが人はいなかった」「それはよかった」といった会話の内実を想定したうえで読むと、伝えたい単語の音が違ってくる。相手に情報を伝える、一見、一方的に画面から視聴者に伝えるニュースでもこの会話の内実が前提に立って、初めて言葉は伝わる。他者、受け手が情報を受け取ってくれるように想像して読む。そうすると読む音は変わってくる。

音読は奥が深く、面白い。声を出すこと自体が生命力を養う。音読は、身体と心を解放し、想像と発見で意欲を生む。

しかし、想像性のない音読は飽きる、継続しない。私たちがどれだけ音読のことが分かっているのか、面白さを伝えられるのか、魅力を伝えられるか、感じられるか、私たち次第になってくる。

毎日、朝から10分でいい、毎日やるから意味がある。学校でクラスでやってほしい。様々な読み方をして遊ぶことで、その日の学習の始まりが前向きになり、クラスに一体感が醸し出されてくる。ストレスを抱えた子どもたちを解放するためにも、朝から毎日声を出す。