『今を紡いでいく』2014年2月
サマースクール 「まほうの夏」コース(三重院の説法にて)
「知っていて」行う悪いことと、
「知らないで」行う悪いこと。
それはどちらの方が、「罪が重い」か。そう問われました。
「知っていて行う悪いことの方が、罪が重い」と私は考えました。
でも、お釈迦様の答えは違いました。
「知らないで行う悪いことの方が、罪が重い」というのです。
知っていれば「手加減」をすることもできるが、知らなければそれはできない。だから、「知らない」で行う悪いことの方が、罪が重いのだと…。
ここから先は住職の解釈ですが、話はこう続きました。
「知る」というのはそういうこと。
人は、日々生きる中で、「経験」を積み、色んなことを知る。
そこで何かを想い、何かを感じ、何かを考え、その中で、人は「手加減」=「正しい判断」ができるようになっていく。「知る」ことによって、できるようになること、心の助けになることはきっとたくさんある。だから、経験するということはとても大切なことなのです、と。
お釈迦様や住職の解釈をどうとらえるかは人それぞれではありますが、この話を聞いた時、
「知識・教養は力になる」
そう、教えてくれた母の言葉が重なりました。
私は4人姉妹の3番目で、「お金がない」が口癖の母に育てられました。「お金がない」と言ってはいたけれど、姉妹4人、全員に「習字」を習わせ、「ピアノ」を習わせ、母は私達に「できること」を増やしてくれました。お金を稼ぐ大変さを知った今、あの頃の暮らしは厳しかっただろうことは容易に想像がつきます。それでも、なぜ「習字とピアノ」を習わせてくれたのだろうかと不思議に思い尋ねたことがありました。母は笑って答えてくれました。
「親はずっとそばにはいてあげられない。でも子どもの中にある知識や教養はずっと無くならないで、お母さん達がいなくなっても力になるからね」と…。
私は、母のその考えにより、多くの先生、友人と出会い、また凛と背筋を伸ばし集中する気持ちよさを知り、また音楽を奏でる楽しさを知りました。それと同時に、できない悔しさを知り、続ける大変さを知り、逃げずに向き合う苦しさも知りました。そしてその全部が「今の私」を創っている。
私たち大人は、先に生まれた以上、時間においては先を歩き続けるしかありません。いつまでもずっとそばにいてあげたいけれど、いつか必ず「一人で歩かなければならない日」が誰の上にもやってきます。その時に、自分の足でしっかり立って、共に歩いてくれる仲間や愛しい人を自分でみつけ、その手をしっかり握って歩いていけるように。今が生きる力につながるように。
一緒にいられる今を紡いでいきます。
松田 な奈