『最後の1ピース』2014年3月
今回は高校時代の部活の先生が言った感慨深い一言をご紹介します。
私の高校時代の部活(テニス部)は、盛んでしたが、練習の時間はとても短いものでした。なぜなら、定時制の学校もあったからです。また、部員の人数が多いこと、コートの改修工事が重なり、コートでボールを打てる時間が、放課後の練習ではたったの10分ということもありました。ほかの学校に比べて練習の時間を満足に確保できないため、いかに効率よく練習を行うか、いかに一球一球に意味を持たせられるか、そんなことを毎日考えていました。部活の時間を一秒たりとも無駄なく、休む暇なく進めるために、コートに入った時も前の人が打っている間は、フットワーク(トレーニング)を行っていました。また、サーブを打つときは左手(利き手とは反対)でボールをあげるのですが、それを緊張した試合の中でもまっすぐに上げる(自由自在にコントロールする)ために、ごはんを食べる時の箸は、利き手と反対の手で持って食べていました。勿論、スナック、炭酸禁止。トレーニングのあとには、プロテインを飲む毎日。
こんなことが伝統になっていたのは、熱心な顧問のN先生がいたからなのです。このN先生が伝統的なテニス部をつくりあげたのです。私達が1年生のときの3年生は、優勝を目標にしている大会の1日目で敗退。私達が2年生のときには、ベストを尽くした結果3位に終わり、悔しい敗退となりました。そして、いよいよ私たちが3年生になったとき……予想はしていましたが、先生が転任してしまったのです。私達は、最後の試合(7月)まで先生に指導してほしかったのですが、その思いは実現できませんでした。
先生が私たちに残してくれたのは、OB・OGという存在。大学に進学した、社会に出たOB・OGが私達のために、練習に毎日つきあってくれました。ただ私たちも先生が転任することを予測し、自分たちで1年プランの練習メニュー、細かい練習内容、コート割などを全て決めていたので、部活動には大きな問題はありませんでした。そして、優勝を目標とする大会では決勝戦に進み、勿論、先生も見に来てくれ、応援してくれました。
そして私たちの優勝が決まった時、先生は涙を流しながら
「私がいなくなることが最後の1ピースだったんだ・・・」と言っていました。
確かに、偉大な先生でした。だからこそ、いてくれるだけで私達も安心できました。安心して試合にのぞめるのは大切なこと。ただ、そういう状態ではなく、先生がいなくなっても、いなくなったからこそ、「部活を廃れさせない!」「私たちが頑張るんだ!」と自立に向かうことが出来たのかもしれません。
今、教育という仕事をしていて、その言葉の重みが、先生が感じていたのはどんなことだったのか、改めて感じることが出来ます。
私がいなくなることが最後の1ピース。実は、私の母の姉(伯母)が亡くなったあとすぐに、従兄弟に「学校の先生の合格通知」が来て、もう一人の従兄弟は、婚約相手の仕事が決まり、とんとん拍子に結婚が出来たということもありました。その時に私の母が、「皮肉だけど、お母さんっていう存在がいなくなって、頑張ろうとしてうまくいったのかな」と言っていました。
「私がいなくなることが最後の1ピース。」
子ども達も一人の人間です。ずっと一緒にいられるわけではありません。いなくならなくとも、「勇気を持って手を放す」ということが出来る先生でありたいと思います。
岩川 真弓