『みんなちがって、それでいい』2014年11月
今年の夏は暑かったですね。夏、私は子どもたちからたくさんの感動をもらいました。特に印象的だったのは、脳性まひのJくんに付き添っている中で出会った二人の男の子です。
あまりにもまぶしい笑顔を向けられて涙が出そうになったのは、小学2年生のTくん。Jくんの前で、クラスに一人はいるお調子者を集めたような4人組が、ギターに合わせて力いっぱい踊り狂っていたことがありました。その中にいたTくんは、曲に合わせて大声を出して飛び跳ねながら、座って彼らを見つめていた私に向かって、とびっきりの大きな笑顔を見せたのです。屈託のない、とも違う。なんだか全てを悟ったような、生きていることそのものの輝きを放った笑顔でした。そう感じた瞬間、鳥肌が立ち鼻の奥がツンとするような感覚に襲われたのです。あんなにまぶしい顔は見たことがありません。
Tくんの最後の作文にはこう、書いてありました。
「Jくんはびょうきです。でもJくんはがんばっています。Jくんがいるとなんだかうれしくなるから、ぼくもうれしいです。ほかのはんの子も、もちろんJくんも、みんな友だちです。」
障がいは厳密には病気、とは言いません。治るものではないからです。Tくんから見て、障がいを持ったJくんが、どこで“がんばっている”と感じたのかはわかりません。“みんな友達です。”というのもどこかで聞いたことのあるようなセリフ回し。でも、『Jくんがいるとなんだかうれしくなるから、』この一言は、素直で、太陽みたいな笑顔を持つTくんだから、発することのできた言葉なのではないかと思います。
そしてもう一人。Jくんが、唯一声をあげて好意を示す男の子がいました。それが、6年生のRくん。RくんはJくんと寝食を共にするのは2回目だったようです。Rくんの寄り添い方はとても興味深いものがありました。恐る恐るでもなく、観察するでもなく、興味本位でもなく、ただ、そこにいたいからと、寝かせられているJくんの横に、気づくとそっと座っているのです。ただ顔を見つめたり、ただ一緒に寝転んだり、同じ声を出してみたり。「初めて会ったときどう思ったの?」Rくんの言葉を引き出したくて私がした質問は滑稽だったかもしれません。「…なんか、障がいを持っているんだろうなって思って…うん、でもそれだけ。」と答えたRくんはやんちゃな低学年の子たちに呆れながら、時に合わせておどけては彼らを喜ばせながら、ちょっと疲れると休憩しにJくんの元へやってきました。
ただ、会いたいからJくんのところへ。静かな温かい空気が彼らの中にはありました。
障がいを持って生まれてくる。人には得意不得意があるように、何らかの不自由さを持って生まれてきた子は、その不自由さと一緒に、何らかの自由を持っているように思います。それは、Jくんのように目の前にいる相手の心の内をそのまま感じ取る力かもしれません。
“みんな”と“何かがちょっと違う”
そういう存在に触れたときの子どもたちの反応には、ご家庭の価値観、雰囲気、その子のそれまでが如実に現れます。世の中には目に見えない障がいを持った人、あるいは器質的な障がいではなくとも、“ちょっと変わった”人、というのはあふれているものです。そんなとき、お子様にどんな関わり合いをしてほしいでしょうか?
初めは拒否をしてもいいと思います。何かが変だぞ?と感じるのはごく当たり前のことなので、それはいけない感情だとは思いません。素直な低学年の子どもたちほど車いすに乗るJくんを見て、「どうしてこうなっちゃったの?」と問いかけます。その疑問を、小さいときに発することで開放してほしい、と思っています。答えは明確でなくてもかまいません。ただ、私は、「そういうことは聞いちゃいけないの。」という大人のメガネは子どもたちにまだあげたくないと思います。「じゃあ君はどう付き合う?」を自分自身で考えてほしい、と願っています。
“みんなちがって、それでいいんだ”
他者を受け止められる子は、自分のことも受け止められる子。
自分のことを認められないと、人のことなど認められません。だから、私は花まるで子どもたちのそのままを認め続けていきたいと日々感じています。そうしたら、世界はほんの少しずつ良い方向に行くと信じて。
鈴木 まどか