花まる通信 『便利さの果ては…』

『便利さの果ては…』2015年12月

『洗濯物をピンチに干している。狭い家なものだから、ピンチのフックを引っかける場所が極めて限られる。扉の木枠の僅かなでっぱり部分にフックをかける。好条件ではない。微妙な力加減が求められ、ちょっとでも気を抜くとすぐにフックが外れ落ちる。舌打ち。もう一度。再び落ちる。焦り、苛立ち。妥協して、床でピンチに洗濯物を全て取り付けてから干すか。いや、洗濯物を床につけたくはない。いかに、フックに力が加わる順番で洗濯物を干すべきか。工夫。バランス。天秤。重さの感覚。落とさなければ勝ちという自分ルールが始まる。この楽しみは乾燥機付き洗濯機では味わえない。

風呂に水をためている。スイッチ一つ押せば、勝手に温水が出てきて適量で止まる。便利になったものだ。昔は、しょっちゅう水を溢れさせていたな。よく「水を止めて~!」という母の悲鳴が聞こえていた。当然、湯は沸かす。タイマー機能なんてなかったから、何度もボコボコと沸騰している湯船を見た記憶がある。水で埋める。「埋める」という言葉は水でも使うと知った気がする。

携帯電話をいじっている。もはやこれがないと不安で仕方がない。目覚ましも、ニュースも、リラックスのために音楽を聴くのも、仕事のやり取りも全て携帯電話。ある日突然雪原の藻屑と化した愛機。手元に、次の携帯電話が届くまでの焦燥感。情報が入らない不安。手に入り、データが無事移行されたときの安堵。すぐさま、メールのチェック。ふと脳裏をよぎる違和感。私と携帯電話はどちらがどちらをコントロールしているのだろうか。』

人は「面倒くささ」を解消するために知を結集し、より便利なものを作り続けてきた歴史がある。と私は考えています。不便で手間がかかるものを、いかにして楽なものへと進化させるか。そこにこそ、先人の学びがあり工夫があり、たゆまぬ努力と研鑽があった。その積み重ねがあったからこそ、今これほどまでに便利なものに囲まれ、恩恵を受ける時代を過ごすことができるのでしょう。そして、この先もまだまだ人は、より良くなるために努力を続けるのでしょうか。

先日あるニュース番組で国民に愛された「世界一貧しい大統領」ウルグアイのホセ・ムヒカ氏の退陣と数多くのエピソードを紹介するものがありました。2012年の地球サミットで彼が話した演説の中から心に響いた一節。前後の素晴らしいスピーチがあってこそですが、引用します。
「貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
まだまだ、言葉の奥にある深い意味を理解するには未熟すぎるとは思いますが、一つの真理だと思います。

さて、縁あって住宅メーカーが主催する住まいフェア等での講演の依頼を数多く受けております。最新の住環境を学ぼうと、モデルルームを見て回っていますが、目にする建物は25年前に建てられた実家とは似ても似つかぬ「別物」。お母さんの家事ストレスを軽減する意図が明確な導線の工夫や、ネット通販での物品や食材購入が身近になってきたことにより、司令室となるキッチン内のネット環境の整備等。子ども達の健やかな成長にはお母さんの安定が大切。そして、お母さんが安定して、心と時間にゆとりを持つために、あらゆる機能性に優れた住まいはいいものだと心から賛同します。しかし、一方でその機能性や利便性が行き過ぎると、子ども達にとっては生活の中にある無数の学びのきっかけが失われてしまうような気がしてなりません。水を溜め始める。止める。ただ、それだけの行為の中で、十分に学ぶことができる時間という概念。洗濯物を干すという行為の中にある、重力やバランスなどの物理的な概念。不便だったからこそ必要だった、人と人とのコミュニケーション。人の技術力の進歩を否定するつもりは全くありません。ただ、頭で念じれば遠隔で何かが操作されるなんてことも、おそらく近い将来現実のものとなる気がします。それは、人が豊かになったことなのか。それとも、便利さと快適さが人を支配しているのか。立ち位置によって答えは変わるし、私も明確な答えは見つかりません。ただ、次代は今の子ども達が担うものだということだけは、紛う方なき事実。その子たちがたくましく時代を生きるために、便利と安全のなかに「アソビ」と「実体験」は残してあげたいと思うものです。

相澤 樹