『公立小学校でもさらけだす』 2016年1月
保護者から授業を見てみたいという要望があり、私の国語の授業を公開した。授業後、懇談会を設けた。そこでは、保護者の方から様々な意見・感想が出された。私の意図が伝わった感想もあれば、逆の意見もあった。授業時間は、子どもたちが常に頭を回転させ、休ませず、集中し続けることを目標にしている。必然、授業はテンポよく進む。もちろん緩急、考える“間”も必要に応じて設ける。だが、子どもには分り辛い、早口である、といった評価も下された。説明もし、理解も求めるが、言い訳に過ぎない。私の授業をどう捉えられようと、見たままがすべてである。そこでは私自身が吟味されている。
授業料を払う保護者が見て、それに耐えうるものでなければ、所詮それまで、後が続かない。見るがまま、思うがまま、そこで出る意見、感想がすべて。真摯に受け取るしかない。そこからどうするかが問われる。
実際、授業を見てもらうと、授業のポイントがわからない、何を教えようとしているのか、見えない、耳の痛い意見をいただく。直接的な言い方ではなく、表情は穏やかながらも、無駄話が多く、問題数があまり進んでいなかったようです、という意見を洩らす保護者もいた。もちろん、好印象の意見・感想も多くあったが、それは当たり前。
さらすことは、子どもたちも、講師も緊張する。いいところを見せよう、魅せる授業を展開しよう、という意識もどこかに働く。だから通常の授業とは違う。しかし、保護者はそんな表面的に現れるところを見ているわけではない。現実の社会で働いて、修羅場をくぐって生きている保護者には、ことの本質は見透かされている。小細工や誤魔化しは通用しない。教科そのものに精通し(予習)、それをどう考えさせるか、わからせるか(指導)、授業時間は限られている。直球勝負、理解を深めるため、モチベーションを高めるため、どうしても必要な話だけが許される。子どもにしか通用しない授業ではなく、大人の評価に値する、授業をおこなうこと。なぜなら、学習塾は保護者の授業料のみで成り立っているから。
さらすことは恐い。すべて見透かされる、見抜かれる。その場しのぎの、小手先の技術や誠意は通用しない。先生が若いから、ベテランだから、という次元の話でもない。経験を積んだ講師の授業を“安定、安心”とみるか、マンネリの世界に“安住”とうつるか。若くても、粗が目立っても、魅力がある、子どもを惹きつける。だから預けよう、預けてみたいと保護者が思えるか。指導する人の全人格が問われる。学ばざるもの教えるべからず。
これは10年前に書いた文章だが、この気持ちは今でも続く。そして、公立小学校こそさらすこと。保護者、地域支援員、花まる社員にさらけ出す。だからだめではなく、どうすればよくなるかに向かう。学校はよくなる。
西郡学習道場代表 西郡文啓