西郡コラム 『いきていてくれるだけで、いい』

『いきていてくれるだけで、いい』 2016年2月

シャイニングハーツパーティーも幕を閉じ客を送りだしていたとき、先生という声がした。振り向くとYさんだった。5年ぶりだろうか、もうしっかり大人になった彼女は自分の足で立って歩いていた。彼女はスクールFCの卒業生で県内有数の進学高校に入学した。目立たない、おとなしい子だったが、芯が強くまじめに取り組む生徒だった。卒業後、しばらくして母親から英語検定を受けさせてくれという連絡が入り、試験場を用意した。会場に現れた彼女は車いすに乗り、言葉が聞き取りづらいほど神経に支障をきたしていた。
 学校でスキー教室があり福島まで行った。スキー場で意識不明になる事故にあい、そのまま福島で3か月間入院、父親も早期退職して両親で看病した。「この子が生きていてくれれば、それだけでいい」母は願った。意識を取り戻したが全身麻痺の後遺症、不自由な会話と車椅子の生活がはじまった。
 そして、シャイニングハーツパーティーで5年ぶりに私と再会した。自分で歩き、しっかりと話してくれた。歩行は健常者のようにはいかない、言葉も力を入れなければ発せない、もどかしい苦しさは他人の理解するところではないが、これから海外で働きたいのでまた学校に行く希望を持って、私を気遣うように明るく話してくれた。
 英語検定を受ける、学校でまた学ぶ、麻痺した神経は何かを学びたい、学ぶことで回復をする。彼女の存在は、生きることは学ぶことだということを私に教えてくれた。彼女は私を先生と呼んでくれた。先生と呼んでくれるから私は先生をやれる。自分から先生と名乗るとろくなことはない。彼女が先生と呼んでくれるうちは、まだ、この職業を続けられる。コンサート会場から駐車場まで、私は彼女と手をつなぎ車までエスコートした。幸せな時間をいただいた。

「一體此懸隔はどうして生じて來るだらう。只上邊だけを見て、それは喜助には身に係累がないのに、こつちにはあるからだと云つてしまへばそれまでである。しかしそれは嘘である。よしや自分が一人者であつたとしても、どうも喜助のやうな心持にはなられさうにない。この根柢はもつと深い處にあるやうだと、庄兵衞は思つた。
 庄兵衞は只漠然と、人の一生といふやうな事を思つて見た。人は身に病があると、此病がなかつたらと思ふ。其日其日の食がないと、食つて行かれたらと思ふ。萬一の時に備へる蓄がないと、少しでも蓄があつたらと思ふ。蓄があつても、又其蓄がもつと多かつたらと思ふ。此の如くに先から先へと考へて見れば、人はどこまで往つて踏み止まることが出來るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まつて見せてくれるのが此喜助だと、庄兵衞は氣が附いた。
 庄兵衞は今さらのやうに驚異の目を瞠つて喜助を見た。此時庄兵衞は空を仰いでゐる喜助の頭から豪光がさすやうに思つた。」(森鴎外「高瀬舟」)

「生きていてくれるだけで、いい」母親から子育ての根本を教えていただいた。

西郡学習道場代表 西郡文啓