Rinコラム 『愛情でできている』

『愛情でできている』2014年8月

ミニもて経験のお話です。
 ぐずぐずとなかなか教室内に入りたがらない年中K君。折り紙を触ったり、ハサミを出したりと、授業が始まる前の時間を私の横で過ごしていました。もちろん教室の中には入ってほしいのですが、「入りなさい」と言って入るものでもないので、彼の気持ちの決心がつくタイミングを見計らっていたわけです。すると「歯が抜けたの」と言いながら笑顔でやってきた同じクラスのMちゃん。私の横で平静を装い座っているK君のことを、じっと見つめて立ち止まりました。「あれ、MちゃんK君のこと待ってくれてるんだ?」という何気ない私の一言に、「うん」と言ってくれたMちゃん。するとどうしたことでしょう。何度か講師に「入ろうよ」と言われても「ヤダ」とつれない返事だったK君が、あれよあれよと折り紙をしまい、ハサミを片付け、「お待たせ!」とばかりに一緒に中へ。K君の恋心に火をつけて、まんまと教室内に導いたのはMちゃんです。私ではなく。
 そして、年長のS君。ママが大好きで甘えん坊、心配性の一人っ子。キャーっと騒ぐ声の先には、女の子が叫んでいます。「虫!虫!」「助けて!」反射的にS君は駆け出しました!あさっての方向に!そう、ティッシュを取りに走ったわけです。虫といえばダンゴムシかアリしか触れない彼なのに、彼女のためにはとにもかくにも我を忘れてダッシュしたのです。そのあと、助けてくれた彼への女の子の視線は、ステキ!という気持ちにあふれていたのに違いありません。それを全身で感じ取ったS君でした。
 ヒーローになりたい。男の子ならいつだって「ママのヒーローでいたい」。お母さんの視線をいつも感じて生きているものです。でも、これほどまでに、「かっこいい自分でいたい」と男の子たちの心を奮い立たせる、女の子の存在って、すごいなあ、と自然に感じ入りました。
 こうやって子どもたちは、子どもたち同士の関わりの中で、「ミニもて経験」をたくさんしながら、勝手に自信をつけていくのです。それこそがまさに、人生の成功体験の積み重ね。そんなすてきなミニドラマが待ち受けている夏(サマースクール)ももうすぐ。年長さんくらいですと、「トイレの心配が…」「髪が洗えるか…」などの相談はよくありますが、大丈夫(ちなみにおねしょは大歓迎)。子どもたちだけの生活の中で、ほんの少しずつ、補助輪のないほうへないほうへ、頑張ってくるのが彼らです。それを見守り応援するのが花まるのサマーです。サマースクールまでに、と何か目標を立ててできるようになったらいいな、とその頑張る過程そのものも、良い経験になるでしょう。
 ところで、私がフランス人である今の夫を、ああこの人と結婚するのだろうな、となんとなく確信した瞬間は、はじめて彼の両親と会ったときでした。出会って2か月後の再会時。彼の実家で、自分の母親を目の前にして、「僕の母の手料理ほどおいしいものはないからね!」「父さんは、母さんのこのケーキだけは、いくらでも食べちゃうしね!」とべた褒めする未来の夫ヤンさん。それに対抗するかのように父オリビエも、「いやあ、きっとレストランのシェフも顔負けだよ」と便乗。それは今でも延々続き、私たちがフランスの実家に帰るたびに父子で本気で褒め合戦をやっているのです。
 このときの私の感想は、「お父さんったら、アツアツなんだから」でも、「お母さん、幸せ者ね」でも(「ヤンさんたら、ちょっとマザコンでは?」でも)なく、「こんな風に愛情を表現しあえる家庭に育ったこの人は、愛情たっぷりでできているという一点において、信頼できる人だ」でした。
 子どもたちをみていても、すばらしい教育者を見ても、そして主人を見ていても改めて思うことは、「人は愛情でできている」ということ。しあわせであるかどうかとは、感謝ができること。愛せるということ。自分が愛されてきたことによって、愛の気持ちは生まれてきます。
 育児や保育・教育の現場で大事なことは、その子にどれだけ「愛の手」をかけられるかどうか。そして自分自身が何よりも幸せであるかどうかが大切です。だからこそ、お母さんの笑顔が、母自身が、父自身が、そして教育者自身が、「しあわせかどうか」が、問われ続けるのでしょう。
 ちなみに先のK君。外授業からの帰り道も、男子とは手をつながない、と先ほどのMちゃんを探す始末。K君と手をつなぎたかったはずの、肩を落とす友人男子に、私がそっと手を差し伸べたのは言うまでもありません。