『感情の表現』2014年7月
年中さん年長さんの頃、泣いてぐずってお母さんから離れない!という子は毎年います。そういう子が、一年生になった時、どうなっているかというと、立派に自立して学習できています。
本当は自分もみんなと一緒にちゃんとやりたいのが子どもの本音。授業が始まってしまえば、泣いてわめいて大騒ぎして床に寝転がっていた子でも、途中で我慢できなくてテキストを見に来て、知らないうちにちゃんと椅子に座り、「イエイ」とつぶやいています。我々も下手に手をかけすぎません。泣いたら構ってもらえるとわかると、ただ上手に大人の気をひく練習をしているだけになりますから。自分から「やりたい」気持ちを見せる時が来るのは分かっているので、その瞬間を見逃さずに声をかけ、認めてあげます。これが、成功体験になります。
ではお母さんの気持ちを想像してみましょう。「なんでうちの子だけ泣くのかしら(不安)。ほかの子はみんなちゃんと一人で入っていけるのに(焦り)。私の何かが悪かったのかしら(自己否定)。ああもう、泣いてばっかりじゃわからないじゃない(怒りにすり替え)」そう感じるのは当然で、お母さんは何も悪くありません。むしろ、ぐずっているわが子を大変な中、負けずに信じて教室までちゃんと連れてきてくれたことに、敬意を表します。今日の授業が、自信を積み上げるチャンスに変わるのですから。
ずっと昔、泣いている年中の息子に、「行きたくないの?じゃあやめる?」なんて言って、あっという間に抱きかかえて一緒に帰ってしまったお父さんがいました。お母さんは激怒していました、お父さんに。「そんなことをいちいち受け止めていたら、どうするのよ!」その通りです。「どうしたい?」「あなたが決めなさい」というような、一見子どもの気持ちを尊重するかのようで、みせかけの民主主義的対応は、「赤い箱」(特に幼児期)時代は、必要ありません。欲しいものを何でも買い与えるのと同じくらい、子どもをダメにするには、もっともよい方法ですが。(このことを考えるとき、私はいつも映画「千と千尋の神隠し」に出てくるキャラクター“坊”を思い出します)
幼児期の子どもが求めているのは、大人の揺るがない指針なのです。「駄目なものはダメ」「それはうちのルールだから」「行かないっていう選択肢はないのよ、あなたの将来を真剣に考えたら」…人生に対する、前向きできっぱりとした大人の姿勢が、子どもたちを(実は)安心させるのです。幼児とは、守ってくれる、強い毅然とした大人の存在を、本能的に求めている生き物だからです。
さて子どもの状況に思いを馳せてみましょう。
子どもの観点と大人の観点は大きく違うものです。子どもたちは、自己中心的な考えしかできないので、簡単に「自分が悪い子だからこうなった」「自分には価値がない」というように考えてしまいがちです。さらに、「みんなと一緒にうまくできなかった」「失敗した」「泣いてしまった」「離れたくないのにひとりで行かなくてはならなかった」というような日常的なトラウマは時に「信じ込み」をおこします。「世界は危険なものだ」「自分は全部できない」というような、極端な思い込みの絶対化・一般化が、独り歩きし始めるのです。
自分がどういう気持ちになっているのか、という理解は、トラウマの解消にとても重要です。もしも怒って人をたたくとしたら、怒ることはOKですが、だからといってたたくことは問題です。誰かのものを羨ましく思う気持ちはOKですが、それで人のものを壊すのは、駄目ですよね。感情をもつということ自体、人間らしさの証拠です。ですが、感情と、それにまつわる行動が混同され、そのことによって感情を持つこと自体がいけないものだと誤解されがちな事実を意識してみてください。
「安全に気持ちを表現してもいい」という経験を知っている子は、共感性を覚え、感情表現が豊かになります。子どもが腹立ちの気持ちを言語化できないと、乱暴になってそれを表現するかもしれません。不安な場合は多動になるかもしれません。でも、心配な気持ちを言わせると、落ち着くことができるのです。「気持ちを言っても、それはOKで、受け止められる」ということを分かってくれば、人として豊かな共感性や思いやりを身につけていくことができます。泣き叫んで気持ちを表現しても大丈夫。その気持ちを、トラウマを、言語化してあげることで、自分の気持ちを自分でも理解することができ、感情と行動を切って考えることができるようになります。子どもが自分の感情を表現できればできるほど、問題は小さく小さくなっていきます。それほど、感情表現というのは大事で、カギとなるものです。(同時に、お母さん自身の焦りや不安や怒りも、表現してよいものなのです)大事なのは、そこから逃げるのではなく、湧き上がる自分の感情に向き合い、乗り越えるチャンスを与えることだと信じています。