『中学生「心の鍛錬」』2017年3月
中学生を指導していて「おもしろい」と感じる一番の理由は、彼らが「日々考えていて、その結果、大きく変わることができるから」だと言えます。「一人の人間としての成長を一気に遂げる時期」である、というのがより適切でしょうか。
ただ、中学生の子を持つお母さん方にそう伝えると、決まって返ってくる言葉があります。
「うちの子、まったく何も考えていないし、変わらないですよ!」
彼らの変化は、見えにくいことが多いものです。変化の促し方にも、この時期特有の方法があります。
例えば中学二年生男子のAくん。定期テストではいつも平均点前後の点数でした。そして、テスト後にはいつも「今回もこんな点数だったわー。ま、勉強してないし、仕方ないっしょ」などと、友達に自分から言いふらすのです。わざとそう言うことで、自分自身をごまかしている、そう見えました。
「で、キミは本当にその結果で満足なのかい?」
授業後、Aくんを呼び出し、尋ねてみました。
一瞬、ハッとした表情を見せるも、すぐさま、「仕方ないですよ、だって勉強していないですから!」と明るく言ってきました。私は、同じことをさっきよりも真剣な顔で聞いてみました。
「そんなことを聞いているんじゃないよ、結果に満足しているのか?と聞いているんだ。どうなの?」
と。すると、突然うつむき、黙ってしまいました。しばらく待っていると、何かモゴモゴとつぶやき始めます。「聞こえないよ、本当はどう思っているか、はっきり言いなよ。」と敢えて厳しい言葉を投げかけます。Aくんは黙り込みました。そのあと私にできることは、彼の中の変化を待つことだけです。沈黙が五分ほど続いた後、彼が重たい口を開きました。
A:「本当は……。」
私:「うん。」
A:「本当は成績を、点数を伸ばしたい。」
私:「そうだよな。」
A:「でも、やっても中々伸びないし、そのうちやる気がなくなってきて。」
私:「うん。」
A:「本当は満足なんかしてないし、これじゃまずいって思ってる。」
私:「それが聞きたかったんだよ。そう思えているなら大丈夫。頑張ろうよ!」
しょぼくれて、うなだれながらも、なんとか前を向き始めていました。こちらは、相槌の言葉しか発していません。しかし、彼自身が自分を見つめようとする時間を取れたことで、偽りの心は消え、本音が出たのでしょう。
これこそ、中学生の成長において欠かせないことだと考えています。勉強はもちろんですが、こういったやり取りの中でしか起こりえない「心の鍛錬」が重要なのです。「自分と向き合うこと」、そして「自分を乗り越えること」とも言えます。
昨年、「花まる中等部」という枠組みが、神奈川県の都筑教室にて始まりました。花まる中等部では、「勉強」と「心の鍛錬」の二軸を明確に分け、勉強には映像授業(=ICT)を用い、心の鍛錬の部分は一対一の面談や一斉訓話などを通して講師が行っていきます。
このスタイルで授業をして半年、確かな手ごたえを感じています。彼らはまだ一年生ながら、主体性=「自分のこととして考える力」がかなりついてきています。映像を自分で視聴しない限り先に進めないなど、「自分でやらないと学習は進まない」ことを前提に頑張れているのです。そして、講師からは「最近どうなんだ?」という突っ込みが、勉強面にも生活面にも入ります。「受け身の学習」をしている生徒を一人も作らない仕組みです。
中学生たちは、自分がどうなりたいとか、こうしたい、ということを常日頃から考えています。考えていないように見えるのは、なかなかそれを表に出す機会がなかったり、単純に下手だったりするだけなのです。そこを引き出し、受け止め、伸ばしていくのが我々の役割です。外で頑張ろうと背伸びする分、家の中では羽を伸ばしたい彼ら。親の言うことは聞かなくても、「外の師匠」の話はちゃんと受け取る。そんな不思議な時期でもあります。
これからの社会では、「勉強ができる・できない」よりも、「自分で考えているか・行動できるか」が問われます。単純にいい高校、いい大学、いい会社に入ったから安泰、という時代ではありません。むしろ、そこで何を考え、何ができるか、の方がずっと重要なことなのです。
余談ではありますが、Aくんはその後、頑張ったりさぼったりを繰り返しながらも、最終的に「自分が行きたい!」と思える学校に無事合格することができました。
さて、今年も巣立ちの季節が近づいてきました。我々の願いは「子どもたちが大人になったときに幸せである」ことです。Aくんのように、まさに「自立した」という形容詞がぴったりの子どもたちの背中を見送ることが、楽しみでなりません。
大塚 剛史