にっぽん風土記 -所沢-

『にっぽん風土記 -所沢-』

こんにちは。今回の「にっぽん風土記」で訪れたのは埼玉県の所沢市。スクールFC小手指(こてさし)校のお膝元で、私が初めての一人暮らしをした思い出の地でもあります。

【鎌倉街道】
所沢の中心部は西武新宿線・池袋線の所沢駅周辺。今回は、その所沢駅の二駅隣である新所沢駅(西武新宿線)周辺と、小手指駅(西武池袋線)周辺を歩きました。
新所沢は、私が初めて一人暮らしを始めた場所であり、アルバイト時代の友達もたくさん住んでいます。当時のことをいろいろと思い出しながら、非常に懐かしい気持ちで歩きました。
駅の西口を出て真っすぐ進むと、新所沢パルコの前を南北に走る大きな道路にぶつかります。これは県道6号線。交通量の多いこの道路ですが、パルコの斜め向かいに白っぽい石碑が建っていて、「旧鎌倉街道」と刻まれています。鎌倉街道とは、もともとは鎌倉時代(1192年から1333年)につくられた道路で、当時の日本を支配していた鎌倉幕府が、鎌倉と関東各地を結ぶために整備したものでした。鎌倉時代当時の、日本の大動脈の一つです。石碑は、パルコ前の道路がその鎌倉街道であることを示しています。ここを通る鎌倉街道は、鎌倉~群馬~新潟を結ぶ道路であり、所沢は北陸・北関東と鎌倉をつなぐ非常に重要な地点でした。鎌倉街道は関東各地にその痕跡をとどめていますが、多くは大動脈としての使命は終えていて、森の中などでひっそりと息づいているものばかりです。今でも現役の道路として活躍しているのは稀(まれ)な例といえるでしょう。

【小手指ヶ原の戦い】
所沢の鎌倉街道は、パルコ前の道路だけではありません。新所沢の西に位置する小手指にも鎌倉街道が通っていて、やはり鎌倉~群馬~新潟を結んでいました。
小手指は、西武池袋線の小手指駅を中心ににぎわっていますが、駅から少し離れると、森と丘陵が点在し、お茶畑が広がるのびのびとした景色に様変わりします。この周辺は、昔から「小手指ヶ原」と呼ばれていて、所沢市内のもう一つの鎌倉街道は、この小手指ヶ原を通っていました。
今から680年ほど昔の1333年、この小手指ヶ原で大きな合戦が起こります。「小手指ヶ原の戦い」です。当時の日本を支配していた鎌倉幕府の軍勢と、鎌倉幕府打倒のために立ち上がった新田義貞(にった・よしさだ)の軍勢がこの地で死闘を繰り広げたのです。
新田義貞は現在の群馬県太田市出身の武将。鎌倉幕府の政治の乱れを見て、同じく幕府打倒を企てていた後醍醐天皇(ごだいご・てんのう)の誘いに乗り兵を挙げました。
先に書いたように、小手指を通る鎌倉街道は、鎌倉と群馬県を結んでいます。鎌倉幕府打倒の志に燃えて群馬県太田市で挙兵した新田義貞は、鎌倉を目指して鎌倉街道を一路南下しました。それを迎え撃とうと鎌倉を出撃し、北上した鎌倉幕府軍も、やはり鎌倉街道を通ります。双方が激突したのが、ここ小手指ヶ原だったのです。

【戦いの記憶】
小手指に移動した私は、この戦いの古戦場を歩きました。まずは駅の南口を出てスクールFC小手指校を通り過ぎ、国道463号まで南下。国道を左折してしばらく進むと「誓詞橋(せいじがはし)」という信号が見えてきます。
信号の名前になっている「誓詞橋」というのは、国道沿いにある橋の名前なのですが、とても小さな橋なので、よほど注意していないと見落としてしまいます。しかし、この小さな橋こそが、ここで行なわれた大合戦の記憶を留める数少ない歴史の生き証人の一つなのです。
幕府軍との決戦を前にした新田軍は、この橋のたもとで戦勝を誓う詞(ことば)を互いに交わし、結束を固め、士気を高めたといわれています。「誓詞橋」の名は、そのことにちなんで付けられました。橋自体は当時のものではなく、後になって架け替えられたものですが、その名に歴史の記憶をはっきり刻んでいる貴重な存在です。
誓詞橋の信号を左折して畑の中の道をしばらく進むと、こんもりした丘が見えてきます。ここは白旗塚と呼ばれ、新田義貞が自軍の象徴である白旗(白地に、新田家の家紋が描かれていました)を掲げたところ。やはり戦いの記憶を留めている場所です。
所沢市内には、この戦いにちなんだ地名が他にもあり、所沢駅の南、八国山(はちこくやま:『となりのトトロ』の舞台です!サツキとメイのお母さんが入院しているのは七国山病院で、ここがモデル)には新田義貞が本陣を置いて軍を指揮したことにちなむ「将軍塚」があり、そのふもとにある小さな橋には、新田義貞が軍勢を勢揃いさせた場所であることにちなんで「勢揃橋(せいぞろいばし)」の名が付けられています。
合戦は新田義貞軍の勝利に終わり、新田軍は鎌倉街道を更に南下して怒涛(どとう)の勢いで鎌倉に攻め込みます。その結果、鎌倉幕府は滅亡し、日本は新しい時代へと突入しました。ここ小手指は、鎌倉幕府の滅亡という日本史上の大きな転換点の、まさにきっかけになった場所なのです。

【花と扇】
話は変わりますが、皆さんは「一揆」という言葉にどのようなイメージを持っているでしょうか?大抵の人は、江戸時代の農民が鍬や鎌で武装して、殿様や代官に抵抗する情景を思い浮かべることと思います。しかし「一揆」という言葉は、もともと「農民の抵抗」という意味は持っておらず、「志を同じくした集団」「同志の集まり」という意味の言葉でした。そして、一揆を結成するのは、武士と相場が決まっていました。「一揆は農民が起こすもの」というイメージが強くなるのは、江戸時代になってからのことです。
さて、ここ小手指は、「花一揆(はないっき)」と呼ばれる軍団が戦ったことでも知られています。時代は、先に書いた小手指ヶ原の戦いの約20年後。上記の通り、この場合の一揆は農民一揆ではなく、武士が結成した集団を意味します。戦いの名は「武蔵野合戦(むさしのかっせん)」といい、小手指ヶ原の戦いの主人公である新田義貞の子供、新田義宗(にった・よしむね)・義興(よしおき)兄弟と、鎌倉幕府の後に室町幕府を開いた足利尊氏(あしかが・たかうじ)との戦いです。花一揆は足利方としてこの戦いに参加しました。
花一揆の名前は、一揆に参加した武士たちが、味方の目印として兜(かぶと)や箙(えびら:矢を入れて背負う道具)に梅の枝を挿していたことに由来します。折しも梅の花の季節。風が吹くと、一揆の面々からはかぐわしい花の香が匂い立ってきたそうで、なんとも風流な軍団です。
この花一揆を率いるのは当時18歳の饗庭命鶴丸(あえば・みょうつるまる)。当時の記録では「容貌当代無双の児」という言葉でその容姿が表されています。「容姿では、誰もかなわない」という意味で、つまりものすごいイケメンだったわけです。まさに、「花一揆」を率いるのにふさわしい人物といえるかもしれません。
これに対して新田兄弟は、部下の児玉党(こだまとう:党というのは、一族という意味)を花一揆攻撃に差し向けます。実は、花一揆攻撃部隊に児玉党が選ばれたのには理由がありました。それは、児玉党の旗印。児玉党の旗印は「扇」だったので、「扇の風で花を散らしてしまえ!」という意味を込めて彼らを花一揆攻撃に向かわせたわけです。
結局、風の前に花は無力でした。花一揆は総崩れになり、まさに散り散りになって退却。総大将の足利尊氏も、命からがら落ち延びました。
あえなく敗れ去った花一揆ですが、小手指には、武蔵野合戦の際に花一揆が手折ったという伝承を持つ梅の木が「箙の梅」として今も残り、地域の方の手によって大切に育てられています。
所沢、小手指を歩くと、過ぎし世の面影が、地名として、伝承として、そこここに息づいていることに感動します。
秋の武蔵野もまた趣き深いもの。皆さんも、勉強や部活の息抜きに、昔の面影を求めて、所沢、小手指を散策してみてはいかがでしょうか。

さて、今回のにっぽん風土記はここまで。気付けば西の空には夕日が輝き、お茶畑もオレンジ色に染まっていました。心地よい疲労に包まれて私は、夕映えの武蔵野を小手指駅まで歩き、思い出深いこの地を後にしたのでした。

<今月の問題>
1. 小手指はお茶の産地としても有名です。小手指で栽培されているお茶は通常、○○茶として市場に出回っています。○○に入る地名は何でしょう?
A.宇治 B.嬉野 C.指宿 D.狭山

2. 静岡の牧ノ原と同様、小手指のお茶畑にも、大きな扇風機のような機械がたくさん設置されていました。この機械の名前は何でしょうか?(ヒントは、FCだより7月号)
 A.乾燥ファン B.防霜ファン C.防虫ファン D.防水ファン

3. 武士が、戦に使う矢を入れて背中に負う道具を何というでしょう?
 A.せびら B.かぶら C.やびら D.えびら

【7月号解答】
1. 牧ノ原の開拓の際、幕臣たちのリーダーを努めたのは中条景昭(ちゅうじょう・かげあき)という人物でした。彼は、開拓と茶の栽培に命をかけることを誓い、その決意を、「自分は死んだら○○になる」という言葉で表しています。○○に入る言葉はなんでしょうか?
A.茶畑の守り神 B.茶畑の精(妖精) C.茶畑の土 D.茶畑のこやし(肥料)
答え→Dの、茶畑のこやし。自分の朽ちた亡骸(なきがら)を茶畑の肥料にしてくれ、という意味の遺言です。茶畑の発展にかける執念が伝わってきます。

2.徳川家と幕臣の領地から取れるお米の量は年間700万石。これは、江戸時代の人が何年くらい暮らせる量のお米に相当するでしょうか?
 A.380年 B.38000年 C.380万年 D.3800万年
答え→Cの、380万年。200×7,000,000÷365=約3,800,000です。

3.現在、浜岡原発があるのは御前崎市ですが、市町村合併で御前崎市ができる前は浜岡町という名前でした。では、浜岡の名の由来はなんでしょうか?
 A.浜松市と静岡市の中間なので一字ずつ取った B.浜辺に岡(砂丘)があるから 
C.昔、この地域を治めていたお殿様の名前が浜岡さんだったから
答え→Aの、浜松市と静岡市の中間なので一文字ずつ取った、が正解。こういう地名は結構多く、例えば朝霞市と志木市の間にある「朝志ヶ丘(あさしがおか)」や、東京都豊島区と多摩地区(東京西部)の中間にある東京都中野区「豊玉(とよたま)」など、挙げればきりがありません。

◆応募資格:スクールFC・西郡学習道場・個別会員および会員兄弟・保護者
◆応募方法:「問題番号と答、教室、学年、氏名」をお書きになり、「歴史散策挑戦状係行」
      と明記の上、メールまたはFAXでお送りください。なお、FCだよりにて当
選者の発表を行いますので、匿名を希望される方はその旨をお書きください。
◆応募先:Mail address :t-kanou@hanamarugroup.jp 
FAX :048-835-5877(お間違えないように)
◆応募締め切り:2011年 10月 30日(日) 21:00