『穏やかな気持ち(1)』2011年4月
大きく揺れた。外に出てみてもまだ揺れている。しかも大地が揺れている。今までに経験したことのない地面の揺れに得体の知れない漠然とした不気味な不安に陥った。この不安は東北を中心に震度「7」の地震として現実のものとなった。震度「7」の、M9の、阪神淡路地震を上回る数字に地震のエネルギーの大きさを知る。地震発生当初、交通手段の停止と都内のビル火災が起きているという情報しか入らなかったが、これは序章に過ぎず、東北地方に大津波が押し寄せているのを知ったのは、地震の発生から一時間ばかり経ってからだった。そして、大津波は想像をはるかに超えていた。
この日の授業の中止と会員の方の無事を願うメールを送り、それと同時に電話かけを行った。しかし、ほとんどの電話は通じない。右手に会社の電話を持ち、リストを見ながら電話をかけ続けるが、通じるのはほんの数軒のみ。一方、左手には携帯を持ち、家族に電話とメールを送るも反応なし。午後10時になり、会員の方への電話はかけを終了させて頂き、皆様の無事を祈るメールを送信した。10時30分にようやく妻の電話につながった。今、妻は自宅まで歩いている。勤め先は東京駅近くで、歩き始めて3時間半、自宅のある浦安まで後1時間ぐらいかかる。子どもとも連絡がとれた。近くに住む成人している兄が学校に弟を迎えに行き、そのまま小学校を避難所としているという。その後、妻は子どもたちと学校で落ち合うことができた。このまま学校に泊まり避難するという連絡が再度ついたのは午前0時前だった。
翌朝、会員の方に本日の授業を中止する連絡をするも昨日のような電話の不通は少なく、冷静さを取り戻しつつあった。会員の中には、都内で仕事をしていた母親が、都内に通う子どもの学校まで辿り着き、そのまま学校で一夜を明かしたという方もいた。会員への連絡を終えると、塾を出て家族のもとへ向かった。パンと飲料水を買い込み、空にしてきたバッグと手提げ袋にそれらを詰め込み、南浦和の駅まで行った。武蔵野線は不通、走り出した京浜東北線もホームは人で溢れ、やっと来た電車に乗るも満員で、しかも徐行と駅停車を繰り返し遅々として進まない。乗り継ぎ乗り継ぎで浦安駅に着いた。最寄りの駅は新浦安だが武蔵野線が不通なら京葉線も怪しい。東西線の浦安駅から帰宅するしかない。辿り着いた浦安駅も人で溢れていた。バス乗り場、タクシー乗り場も長蛇の列、歩くしかない。私と同じように帰宅する人たちが同方向へ向かえば、逆方向からはディズニーの袋を下げた家族連れが行き交う。皆黙々と無表情にただただ歩いているだけの、異様な光景だった。
小学校に直行し家族と会うも、家族は余震と教室の一夜の寒さでほとんど眠れず、疲れ果てていた。学校の教室で気持ちが落ち着くまでしばらく話し込んだ。妻は夜東京駅近くから歩いた。途中、某大手建設会社の若い社員が旗を持ち、浦安・市川方面に歩く人たちを誘導した。被災時に交通手段が停止した場合を想定したシミュレーションを会社でしていたらしく、同方向に歩く人を巻き込み、一団となって帰ることができた。そのことに妻だけではなく、同行する人々は感謝したという。見えぬ地震の被害への不安、帰り道のわからぬ不安、夜道の不安、女性一人歩きの不安を解消し、初めて会う人とも同じ境遇を共有し、共に歩く一体感が僅かながらの安心感を芽生えさせたのも、それを束ねてくれる若い社員がいたからだった。非常の事態だからこそ、一期一会、忘れえぬ人となった。
地震直後の避難所である小学校でも混乱したらしい。食事がない、水がない。敷く毛布が一枚、羽織る毛布が一枚では教室の寒さはつらい。余震は不安を煽る。幼子二人を連れた母親は、怯える子どもが母親から離れず、トイレにも行けない。中には、ペットを連れてくる人もいた。家族同然のペットにも命はあるのはわかる。しかし、今は人の命が危険に冒される逼迫した状況である。せめて教室の外に繋いでも博愛の精神の許容範囲だろう。しばらくして乾パンと水が配給された。
昨日のことを一通り話し終えると、家族も落ち着いたようで、帰宅してみることに同意した。小学校にいた給水車は既に配給を終え、もういなかった。水は貰えない。昨日の残りの水と乾パンを持ち、避難所である小学校を出て帰宅した。室内の壁の亀裂や割れたガラスや花瓶、本の散乱はあるものの、住める安全を確認した。明かりは点く、しかし水は出ない、ガスも使えない、下水は使える。不眠と不安とでしばらく家族は呆然としてただ休むだけだった。
浦安市はもともと漁師町である。そこから首都圏の拡大とともに埋立地を海へ海へと延ばした。ディズニーリゾートもこの地にある。その埋立地が地震で液状化現象を引き起こした。道路は至るところで陥没し、捲り上がり、泥水を湧き出している。マンホールが1メートルほど飛び出しているところもある。基礎工事のしっかりしている商業ビルやマンションも地面との繋ぎの部分は段差が出来ている。基礎工事のゆるいビルは出入り不可、一戸建て、電柱、標識は傾き、陸橋は通行不能になっているところも多々ある。ここも被災地であった。
しかし、浦安市も被災地ですというのも憚るほどの悲惨な光景が東北地方で繰り広げられていた。津波は市や町や村を丸ごと飲み込んだ。地震のたびに聞く津波警報にどれほどの警戒心を抱いたか。スマトラ沖地震により大津波の映像も対岸の火事としか捉えていなかった。現実。東北四県の太平洋沿岸の市や町や村を次々に襲う津波は、家も車も船も、そして映像に映らぬ人をも流す。多くの命を奪い、何年も何年もかかって築いてきた市や町や村を瓦礫の廃墟に化した。
(次号へつづく)