『心得を読む』2012年3月
新学期、最初の授業では、「道場の心得」の読み合わせをすることにしている。新会員はもちろん、これまで通ってきている子どもたちにも初心に返る意味でも、そして反復の意味でも毎年年度の最初に話して聞かせる。そもそも心得を作ったのも自立した学習者を育てたいから。学ぶということはどういうことなのか、それにしっかり向き合い、常に忘れずぶれず、学習者としての王道を歩んでほしいからである。小学生の年齢でどこまで理解できるか。しかし、今、分からなくてもいい、いずれ分かるときがくる。それに本質的な話は、大人が聞いて納得できる話でなければ子どもにも通じない。そう信じて話す。
「一、学ぶ、やりぬく意志をもつ」当たり前の話だが、学校があり塾があり漫然と惰性で学ぶこともできてしまう。そこに自分の意志が働かなければ何も残らない。成長することは自分の限界、守備範囲を超えてこそ、だからやりぬいて少しずつ限界を広げるしかない。「一、学ぶ、できた、わかった、喜びを感じる」自分の限界を超えた達成感は自分へのモチベーション。面白いからやる。「一、自らの頭で考え、考えぬく」学習塾は頭を鍛錬する場、自分の頭を鍛えるために通っている。だから自分の頭で考えることは至極もっともなこと。「一、想像力を働かせる」明日何がある、次に何がる、生活レベルから学習レベルまで常にすべて思い描くこと。「一、逃げない、正面から取り組む」ここが肝心。正面から取り組んでいけばいつかできる。逃げたらできない。自分の学習は自分で背負う、そういう意識が自分を成長させる。「一、今やる、すぐやる、ちょっと待ったはなし」できる人の基本。その場で理解しきること、やらなければならないことは先にやること。時間をおけばおくほど記憶がうせ、やる気をなえさせ、非効率の学習になる。「一、すぐにできるものはない、だから続ける」水泳、野球、サッカー、ピアノ等他の習い事しかり。教えても習ってもすぐにはできない。何度も繰り返して自分のものにしていく。だから続けるしかない。「一、あきらめない、何か方法はある」できません、ではそこで終了。何かを見つけていかなければ生きてはいけない。「一、できない、わからない、だから考える」できたこと、わかったことはもうどうでもいい。自分のものになっている。できない、わからない、だから学ぶのだ。学習の本分を忘れないこと。「一、やりはじめたら、集中する、神経を張り巡らせる」今、なにをやっている。対象そのものだけを考える。集中するは言うに易し、自分の体で集中する状態を作り出すこと。体得すること。「一、どんな環境でも自分次第、集中すればできる」周りが騒ごうが、うるさかろうが集中することが体得できれば、周りは気にならない。集中できる環境を用意してもらうなど思はないこと。「一、言い訳、屁理屈をいわない」粗探しはできる。言い逃れはできる。それが何になる。そんなことはもうわかっている。要は、その境遇の中で自分がどれほどできたかどうか、自分に正直になるしかない。「一、自分の行動には自分で責任をもつ」「一、人に頼らない、自分のことは自分でやる」「一、他人のせいにしない、まずは自分を見つめる」自分の学習はすべて自分の責任、他を頼るな。自分を素直に見つめるしかない。「一、人の話は最後まで聞く、相手の真意を読み取る」要は、要約力。この人は何を言っているのか。「一、人に分かるように筋道立てて話をする」自分は何を言いたいのか、伝えたいのか。相手を想像して話すこと、書くこと。「一、ごまかさない、できたふりをしない」自分をごまかさなければ誰でも伸びる。学習者の基本中の基本「一、まずは自ら判断する、そして次に進む」自分で判断しなければ次に進めない。間違っていればそこで叩かれろ。それだけのこと。「一、他人と比べても仕方がない、自分ができたかどうか」持って生まれた能力を比べても仕方がない。神を恨むか親を恨め。恨み、羨望で生きていても面白くない。持って生まれた能力などどうでもいい。自分は何ができたか、つくってきたか、それが学習。「一、学習する時間、遊ぶ時間は自分で決めて、守る」学習しながら遊びのこと考えても効率は悪い、遊びながら学習のことを考えても面白くない。徹しろ、ということ。「一、遊び、運動、習いごと、そして学習も皆同じ生き生きと」すべて何事も自分の頭を鍛えられる。だから生き生きとやること。「一、姿勢が悪ければ集中が続かない」まずは学習する体を作ること。まさに体得。「一、人に会ったら挨拶をする」社会で生きていく以上、コミュニケーションは不可欠。独りよがりでいきがっていても非効率。挨拶はコミュニケーションの初歩。「一、乱暴な言葉、粗野な言葉は心を乱す」言葉が人を作る。自分から出る言葉は自分が培ってきたもの、学ぶ謙虚さがないと受け入れる能力が低くなる。「一、おわったら、片付ける」「一、ゴミは見つけた人が拾う」掃除ができて一人前の社会の一員。
初日の授業は、この「心得」の話でおわる。どこまでわかるかわからない。ただ、いずれわかる、という信念で話す。そして道場に通う以上、ここは学ぶ場であり、頭を鍛える場ということを思い知ってほしいから真剣に話す。初めが肝心。思いは通じるのか、子どもたちは真剣に聞いている。すると、ある種の高揚感が生まれてくる。学習への意欲も芽生え始める。初日の授業は充実したものになる。この雰囲気の鮮度を落とすことなく維持できるか、真剣な眼差しを維持させることができるか、「初心忘れるべからず」を実践できるかどうかは、彼らではなく、私たち預かるものの責任。