『子育ての極意は、子離れ』 2018年3月
「シャイニングハーツパーティー」が開催された同日、同じ主催者、同じ建物内で、「杉並区立すぎのき生活園」の生和多恵子先生の講演会があり、拝聴した。「特別な支援が必要な子どもが大人になるまでに私たちは何をすればいいのか?40年間の具体的な経験」をお題にした、障がいを抱えて生きる人の自立と就労についての講演だった。初見の年少から成人になるまで、長期に渡って関わってきた事例、そして語る言葉は、口調は穏やかなものの、説得力があり、力強い。そして、障がい支援の現場で働く経験から、「子育ての極意は、子離れです」と言い切る。障がいを持つ子に、親の支援は生きていくうえでは必要不可欠とだれでも思うが、紹介された事例では、反抗する子どもに、母親は限界を感じ、長年のうっ積から、「あなたの面倒は見ません」と半ば喧嘩腰に子(といっても既に成人している)に言い放っていた。子も感情に走り、「いなくて結構」と突っぱねる。最低限のデイケア―は用意して、親は出ていき、距離を置いた。いなくて結構と言い放った手前、困っても母に泣きつくわけにはいかない。出ていった腹立たしさといない寂しさが交互する複雑な時間は、いい冷却期間となり、そこから湧いて出てきたのは「お母さん、ありがとう」という素直な感情だった。障がい介護は親が支援する“当たり前”をしない選択肢はあり得ないが、不在で初めて有難みを知る。「子育ての極意は、子離れです」何十年も障がいの介護の現場に携わってきた方が語る「極意」だけに、私自身も原点に返る思いがした。
時を同じくして、長野県北相木村の山村留学センターに宿泊して、施設責任者の話を聞いた。ここにも「子離れ、親離れ」があった。生活を親とともにしない⇒親に頼れない⇒究極の「子離れ、親離れ」だ。施設で食事は作ってくれるが、用意も片付けも自分、掃除洗濯も自分、宿題も自分、すべて自分が決めてやる。自主性がないと生活できない、避けられない環境にいる。当然、当事者意識も生まれる。核家族、少子化、外遊びの貧弱は、親子関係を濃くする。愛情を多く浴びるが、バランスを欠くと、依存体質に陥り、自立が遅れる。自立の遅れは、自分はさておき、他人のせいにする。自分に甘く、他人に厳しく、寛容さがない。寛容さが薄いと、意思の疎通を面倒なものだと決めつけ、こもる。濃くなりすぎた親子関係を断ち切るためにも、「子離れ、親離れ」の環境がある山村留学だった。
「親離れ、子離れ」は、当然生活だけはない。自分で生きていくために、今を学ぶ。学習の自立のこそ、重要なテーマだ。学習道場でも、学習の親離れをまず始める。家庭学習、課題。課題は日課。毎日やるから鍛えられる能力を高めるために課す。また、忘れるから復習として、あらかじめ考えてくるから予習として課題を出す。日課を逃がすとたまり、たまりすぎると、できません・やれませんとなる。学習道場では、課題ができない・やれないときでも、そのまま寄こしてください、とお願いしている。なぜ、できない、やらない。どうしたらできる、やれる。これを考えさせ、実行させるから、学習道場がある。できない、やれない子に「今度はやってきなさい」と言い方の強い優しいに関係はなく、一度ですぐにやってくる子、変わる子はまず稀だ。やらない、できない習性は根強く残る。こちらも根気よく、少しでもやってくれば褒める。褒めても叱っても効き目がなければ、居残ってやってもらう時間を親からもらう。課題しかり、学習の自立を局面局面で問うていくしかない。学習の自立も「親離れ、子離れ」が第一歩だ。
西郡学習道場代表 西郡文啓