『ユーモアは日常の中のアート』2019年1月
ひょうきんな自分、というものは誰の中にも存在します。それは誰かを笑わせたい、喜ばせたい、驚かせたい…というような、相手が幸せであることに喜びを感じる、社会的な生き物である人間の、根源的な欲求です。
子どもたちは表現していく中で、必ず自分の中の「あそびゴコロ」に気がつきます。そして最終的には最も重要な、自分を楽しませたい、という欲求に従ってゆきます。その瞬間こそが、自由に「表現する」ということです。他者をイメージし、しかも自分を喜ばせる。それが同時にできることの追求はまさに、よい仕事をしているときの我々大人の理想ではないでしょうか。
「見守り」ながら子どもたちの「あそびゴコロ」をいつも引き出せるつもりでいる。それが、アーティストでありながら教育者として生きる私が大切にしていることです。絵の具がついた手を見て「汚れちゃった…」と言った子に、「その手も作品だね」と言ってカメラを向けると、彼らは笑顔でフレームに収まります。固定概念にとらわれず、「こんなとらえ方もある」と示すものという意味で、ユーモアとアートは同じ性質を持っているのです。どちらも美しいと思ったこと、おもしろいと思ったことを作品に昇華するという点では同じ。逆に、「こうでなければならない」といった、大人側の「ねらい」に気づいてしまうと、それはもうあそびでも表現でもない、大人を喜ばせるためのゲームになりさがってしまう。私自身が子ども時代にそうであったように、表面には出さないけれど、子どもたちの内面はその違和感を感じ取っています。
どんなことにも笑いを見つけられる人は魅力的ですよね。日常では、例えば一日に一つ、失敗や大変だった出来事をどんな「オチ」にすれば人は笑うかを考えて、SNSにあげるつもりでイメージしてみてください。言葉にすることで自分の気持ちを整理できますし、「本当は私はこうしたかったのか」という発見もあるかもしれません。落ち着いて考えてみたら「笑える」と思えたなら、マイナスの出来事も「ネタ」に昇華できたということなのです。
井岡 由実(Rin)