『対峙すること、咀嚼すること』 2019年11月
学習に限らず生活面でも、その子が伸びている(成長している)と確信するのは、物事に対峙できているとき、学習を自分事として捉え向き合っているときだ。簡単にはいかない。言葉で指摘しても簡単には変わらない。根気よく指導し続けて、本人が自覚せざるを得ない状況になったときに変わる。受験のよさは、変わらざるを得ない状況を作り出すところ。当事者意識を目覚めさせないと解決できない、合格できない。受験を経ることで健全な学習法が身につき、心身を鍛えることができる。身についた学習法は実生活での生きる力の基盤になっていく。「できない、わからない…このままではいけない、何とかしなくては」と思ったとき、学習を自分事として捉えた第一歩だ。できない、わからない、この逆境や失敗が学習の出発点になる。
成績のいい子、優等生と言われる子が「小学校のときはよくできたのに」などの冷ややかな声で伸び悩むケースも多い。大人の顔色を読む子、褒められることを求めすぎる子ほど陥りやすい。親や先生が求めているものを察することに長けており、他者性もあり、コミュニケーション能力も高い。先生からの評価が加味される中学の成績の一つ、内申書の評点では高い点数が取れる。空気の読める子は成績がいいのは当然だ。
ただ、その後、伸び悩むケースも見られる。小・中学校までは順調に進むことができても、その後の段階で壁にぶつかる。外からの評価で自分の存在を作ってしまうと、できない自分を人に知られることを怖れ、“できたふり”をするようになる。できるところは誇らしげにやり、できないところは無意識に避ける。端的な例がカンニングだ。カンニングの罪悪を自覚している子はまだいい。「見ちゃえ、ばれたらしょうがない」と大人とゲームをしている茶目っ気のある子は重症ではない。無意識に見てしまう子、自分はカンニングをしている自覚がない子は、嘘をついてまでもできている自分を演じようとしてしまう。ただ、そういう子は優しい子でもある。外からの評価を崩したくない。親や先生を悲しませたくないと頑張る。
できない自分と向き合うことができず、できたふりをしてしまう子に対して私たちがすることは、できない自分と直面させることだ。認めたくない自分を直視し、泣き崩れて、そこから這い上がるしかないという思いが生まれたとき、初めて自分事としての学習に取り組めるようになる。
算数が嫌いなある女の子は、授業で習ったことをすぐ「わかった」と言う。しかし、それは先生の言ったことがわかっただけ。人に教えられてわかるということは、自分の実力ではない。自分でできる、スラスラできたときに初めて基礎が備わったことになる。道場の学習で最も大切にしているのは、基本の咀嚼だ。わかりきって、初めて基礎となる。簡単そうで難しい。できないことを突きつけられ、苦しくてとうとう泣き出す。でも逃げられない、立ち向かうしかない、自分でやるしかない。なりふり構わず、わからず見苦しい自分の醜態をさらけ出してから、ようやく物事と対峙し始める。解決の糸口はここにある。やらされているのではなく、彼女自身が自分事として捉え食らいついていく。苦手だった算数がわかるから、苦手を克服できる。
道場での学習の肝は、学習を自分事と捉える姿勢と基本的な考えの咀嚼だ。「○○が嫌い、苦手」それでも、受験に向かわせるには逃げずに対峙することと、咀嚼すること(わかりきること)で苦手意識が変えられる。受験の学習量は多い。カリキュラムも熟したい。大概の子どもは大まかに理解して先に進む。大量の問題をパターンで解くことが得意な子、少なくとも熟せる子はそれでいい。しかし、できない子ほど咀嚼力が必要だ。対峙と咀嚼が道場の指導の基本になっている。
西郡学習道場代表 西郡文啓