花まる教室長コラム 『わからない、は悪なのか』臼杵遥志

『わからない、は悪なのか』2020年10月

――「わからない」が言えない子
 教育の世界に飛び込んで、まず驚いたことは「わからない」が言えない子の多さです。たとえば、3年生のTくん。算数プリントを解き進めていると突然のフリーズ、固まってしまいます。頭の中で考えているのかと思いきや、横顔を見る限りどうやら思考停止している模様。おそらくこちらから声をかけない限り、20分でも30分でも空を見つめていたでしょう。また、年長のYくんは非常に負けず嫌いで、「ヒントいらない!」と言いながら自力で回答することにこだわります。しかし、わからない状態が続くとふとした瞬間に緊張の糸が切れ、癇癪を起こしてしまいます。
「この子たちは自分が困っていることを表現する方法を知らないのではないか。」
この問題意識は今も私の指針になっています。演劇の世界と教育の世界を行き来する私には、この問題がとても他人事のようには思えなかったのです。

――二つの「わからない」
 「わからない」という子に対して私はよくこう答えます。「わからないって思うからわからなくなるんだよ。『わかる!』って信じてやってごらん」と。そしてもう一つ、「わからないことを明確にするのは大切なことだね」とも伝えます。一見すると矛盾するようなこの発言。実はこの裏には二種類の「わからない」が隠されています。一つは考えることを放棄したギブアップの「わからない」。それ以上考えることをするまいという諦めの感情が弱音となって出るパターンです。もう一つは己の理解の度合いを測るための「わからない」。ここまではわかるけど、ここからがわからない、と現状を分析するために口に出すパターンです。
 たとえば、6年生のRちゃんは算数の問題でちょっとつまずくとすぐに「えーわかんない」と弱音を吐いていました。その子のポテンシャルからすれば、少し考えるだけでできそうなものさえ、あっさりと投げ捨てます。それはもう毎週のように。対する私も毎週のように、「どこまでわかった?」と線引きを続けます。するとやはり、最初に彼女がわからないと言った箇所の数歩先までは難なく理解できていることが明らかになりました。そうして「わからない」「どこまでわかった?」を繰り返し始めて2か月たったある日、彼女は「先生、ここまではわかったんだけど、ここからがわからない」と言いました。まさしく、放棄から分析へと「わからない」が変容した瞬間でした。

――無知の知
 「わからない」は悪ではありません。「わからないことを隠す」のも悪ではありません。残念ながらこの国において「わからない=恥ずかしい」と感じてしまう風土は根強く、大人がどれだけ気を配ろうと、そう感じてしまう時期は訪れます。現時点では仕方のないことです。強いて悪を挙げるのであれば、「知ったかぶりを見逃すこと」です。「無知の知」とはかの有名なソクラテスの言葉ですが、やはりとても重要な示唆に富んでいます。「わからない」という現状を自覚し、受け入れることが「わかる」への第一歩であると、私は考えます。そのうえで、とことん粘って試行錯誤するのも良し、まずは先人に教えを乞いコツを掴むのも良し、誰かの真似をして形から入るのも良し。その人なりにわかろうとすることが大切なのだと、今日も私は授業を通して子どもたちに伝え続けています。

花まる学習会 臼杵 遥志