高濱コラム 『作文の力』

『作文の力』2021年2月

 年に一度の作文コンテストが終わりました。良い作文を書こうと家庭で特別の準備をしてくるのでもなく、授業内で書ききり、大人が過剰に助言をして立派に見える作品に仕上げるようなこともしないというルールです。今年も、1年生から6年生まで、自分に見えている世界を凝視して、感じたことや考えたことを見事に書き表せた子たちの作文が選ばれて、作品集に掲載されました。
 今年の作品集の巻頭文では、「心を見つめる」ということについて書きました。「不幸せな大人」の典型的な症状は、「自分のやりたいことがわからない」ということである。それは、幼いころから学校での決まりごとや入試などを「やらされ」て生きてきた人だし、哲学の青年期を持てなかった人だ。逆に幸せな大人の多くは、幼い頃から「自分のやりたいことを見失わずに、没頭し続けてきた人」だし、青年期に自分のペースで「なんで人間世界には〇〇があるのだろう」「それって絶対に必要か」というように哲学をしてきた人である。等々、いつも通りの持論を書きました。
 そして感じたのは、文章を書くことこそ自分の心を正しく見つめる最高の機会だなということです。選抜された作文に共通するのは、自分の弱さや醜さなど、心の負の面もしっかり直視できていることでした。それは、さらけ出してくれたので可愛げがあるとか魅力的だということ以上に、「マイナスも含めて、心を正確に見つめる」ことに価値があるからです。
 テレビのコメンテーターになると、誰しも「良い人」を演じようとしてしまうように、衆人の目にさらされる文章は、人目を気にしてしまいがちです。「今日遠足に行きました。楽しかったです。」という作文がデッドなのは、心を見つめず予定調和の期待に応えている浅さゆえです。心を見つめ、言葉にする習慣があれば、「楽しいはずの遠足なのかもしれないが、次はこれしろあれしろと命じられて、ワクワクしなかったなー」などと心の躍動や、沈潜を正確に把握できるでしょう。実際、今回のコンテストでも、「私は問題児になってみたい(6年生)」「私だって甘えたいのだが、お母さんの前に行くと冷たく当たってしまいます(6年生)」というように、自分でも見たくない正直な心のありようを、しっかり記述した作品が多数ありました。
 私自身は、小学生時代は作文が大の苦手だったし、読書感想文にいたっては地獄くらいの感覚で「書かねば」と追い詰められていた人間だったのですが、中一から始めた日記が解放してくれました。本当に誰の目にも触れない日記には、好きな女子への思いや性的な関心、仲間への嫉妬や殺意レベルの怒りなど、棺桶にそのまま入れて焼却してもらわねばというくらいに、感じた通り、思った通りに書きつけることができました。
 負の心をあるがままに見つめ、言葉にできるようになると、正の心も同様に正しく見つめられるようになります。「そば打ち体験教室だったが、正直好きな味ではなかったし、私自身はそばの長さを揃えたあとの端の切り残しの形のおもしろさにこそ引き付けられた」というように、本当に関心を奪われたことを精緻に言語化できるようになります。それこそ、「生きる力」というときの、根源にあるべき力ではないでしょうか。心の浮きも沈みも正しく見切れること。そのうえで、マイナスな心境でもありのままに書けると人の気持ちを動かす文章になるし、何より自分自身がスッキリして生きていけます。
 
 さて、緊急事態宣言に伴い、2月の雪国スクールも中止を決めた日、お茶の水の事務所から駅までの道を歩いていたら、4歳くらいの子を連れて、ベビーカーに赤ちゃんを乗せたお母さんが、すれ違いざまに「高濱先生ですよね」と近づいて来られました。会員保護者だとわかったので挨拶をしたところ、何かを飲み込むような一瞬の後、「先生の、講演の動画やコラムの言葉で、すごくすごく勇気づけられています…。いつも、ありがとうございます」と、一言一言区切る丁寧な間合いでおっしゃいました。「こちらこそ、ありがとうございます」と明るくお礼を言い会釈をして、駅までのゆるやかに上る道を歩き始めたときです。ふいに涙がポロポロこぼれてきました。これには、自分で驚きました。泣く気などまったくなかったからです。
 俺は一体何に涙しているんだと考えたのですが、どうやら、お母さんの言葉の奥にある「やさしさ」に反応したようでした。思えば、「ピンチのときこそリーダーなんだから強くあらねば」と、一年間ずっと気が張っていたように思います。無意識化では結構無理していたのかもしれません。何より、三度のメシより好きな野外体験が、春・夏・年末年始に続いてまたも中止ということで、深く気落ちしていたことは確かです。そんなとき、言葉の奥の真心と温かさに触れて、突っ張り棒が外れてしまったのでしょう。

 小一の思い出がよみがえりました。その日は午後から雨が降り出したので、次々と保護者が迎えに来ました。ところが、私の親だけ一向に来ません。薄暗くなっていく教室でどのくらい待ったでしょうか、ついに登場しました。先生の「お母さんが来なさったよ」という言葉までは耐えていました。ところが、うす暗い靴置き場で愛する母の姿を目にしたとたん、ワーッと泣き出してしまったのです。今日のこれは、あの感じに似ているなと思いました。
 まあ、偉そうにいろいろ発言したり書いたりしていても、正味の私はこんなものです。お母さんたちのため、と言いながら、振り返れば、会場探しから会員紹介まで、ブルドーザーのようにやってくれるお母さまたちの、実の母のような応援や支援のおかげでここまでやり続けることができたのです。真心のこもったお手紙やメールなどをいただくたびに、どれだけ元気をもらってきたことでしょう。今回も、小さなエピソードなのですが、「あ、また支えてもらったな」と感じたのでした。   

花まる学習会代表 高濱正伸