『読書〝乾燥〟文』2021年1月
今でこそ、教えるという仕事をしていますが、好きな勉強・嫌いな勉強というものはあります。学校の宿題でいえば「読書感想文」が一番嫌いなものでした。読書好きの姉は中学生の頃に書いた感想文が県レベルで賞を取った実績の持ち主だったこともあり、プレッシャーというか劣等感もあって、感想文には手が伸びないまま夏休みの終わりが近づく。子どもたちの声からも、苦手意識を抱えている子も多いようです。
なぜ私は感想文が嫌いだったのか。まず「課題図書」の存在です。これを読みなさい!と他人から強要される本はどうしても好きになれない体質でした。読書量そのものが多くなかったこともあり、あれもこれも!と読むタイプではなかったのです。父が買ってきた小学生向けの豊臣秀吉の伝記があったのですが、当然「読め」と言われれば触れる気にもならず、リビングに寝かせたままになっていました。ある時、大河ドラマを食い入るように観ていた父の横顔を見て「そんなに楽しいものなのか!?」と思い、その本を開いてみたこともありました。本を開いてみるきっかけは自分自身の心の動き方次第であったようです。
とにかく夏休み期間中に課題図書を手に取ることはないので、「自由図書」の部門に目を向けることとなります。今まで読んだ本でも読み返した本でも何でもいいので題材を一冊に決め、感想文を書く覚悟を決めます。ここで早速、壁にあたるわけです。「この本の話、誰も知らないだろうなあ」と余計な気を遣ってしまい、本の内容を細かに作文用紙に埋めていくことに。結果として、「この本は〇〇が~~をして△△という話で、楽しかったです/勇気があると思いました/続きを読んでみたいと思いました。」といった調子のおもしろみのない感想文が出来上がってしまうのでした。原稿用紙を埋めたことで満足し、読み返しもしないまま提出。当然のことながら入選などするはずもなく、感想文の力は一向に変わることなく学年が上がるわけです。
さすがに他人の目を意識するようになってテコ入れをしようと思い立ったのが中学3年生の夏。夏休み前に思い切って国語の先生のもとへ相談に行きました。自分がいかに感想文を嫌っているかをつらつらと述べ、去年書いたのがこれです、と手渡すと先生は最後まで読み終わらないうちに
―ああ、こりゃ〝カンソウ〝文だな。
とぼそりと一言。
―感想がないんだよね。砂漠みたいな風景で、乾燥してるんだよ。ちょっといいか…。
そんなわけで先生との対話式レクチャーが始まりました。
―小学校の教科書にあった『スイミー』の話、覚えているか。ほら、赤い魚のなかに黒が一匹混ざっている話だ。学校でこんな場面なかったかね。誰かの意外な特技を見つけた瞬間とか、さ。
え?なんで学校の話になっているの?とツッコミを入れたくなりましたが、瞬時にクラスの友人Kくんが浮かびました。授業中はぼーっとしていることで有名なKですが、とにかく背が高い。体育のバスケの時間にはゴール前に構える彼にボールを集める作戦で圧倒的に得点を稼いだ、というようなことがちょうど最近あったのです。
―そうそう、こういう話がほしかったんだよ!現実で似たような場面を経験していたらわかるわけだよ。すると『スイミー』は魚が生き延びる話ではなく、個性を活かして集団を強くする話なんだな、と言えるわけだ。感想ってそういうものでいいんだよ。それを文章にしてあげればよい。
それから先生の若かりし頃の武勇伝を延々と聞かされ疲弊しきった私でしたが、読書感想文を書くにあたり、
・自分の経験と照らし合わせる
・自分なりの解釈を与える
こんな技術をもらったのでした。
強制される読書と同じように、感想文のための読書はやはりおもしろくないなという本音は変わらずです。しかしながら「感想」をもつこと自体は実はとてもおもしろいものです。感想文とはすなわち「どう生きてきたか」「どう生きていきたいか」の色が濃くなっていくものなのだろうな、とも思うようになりました。この孤独な主人公は、あのときの自分と似た状況かもしれないな。涙って、悲しいときにだけ流れるものではないのだな。自分自身の経験と絡めることで、感想文は乾燥したものから活き活きしたものへと命を宿すものだと。今度は私が伝えていかなければとも思っています。
花まる学習会 梅崎隆義