西郡コラム 『学びの指針“学習の心得”(四)』

『学びの指針“学習の心得”(四)』 2021年5月

一、 他人と比べても仕方がない、自分ができたかどうか
 持って生まれた能力は人それぞれ違う。これが大前提。持って生まれた能力を比較して、他者の能力を羨望しても、自分の能力を嘆いても、何も生まれない。自分の位置を他人との比較の上で確認しても、自分の能力を伸ばすことにはならない。他者との比較では自己肯定感も生まれない。気持ちが虚しく、後ろ向きになる。比べるのは昨日の自分。自分ができたか、わかったかどうか。“よりよく”が向上心、生涯の学習の心得になる。他者と比べず、その子だけをしっかり見てみれば、どの子も成長している。伸びない子はいない。性別、人種の差異のレベルではなく、人それぞれ持って生まれた能力が違うからダイバーシティー…「多様性」なのだ。

一、 学習する時間、遊ぶ時間は自分で決めて、守る
 時間を忘れて無我夢中で遊ぶことは幼さの特権、そして、エネルギーの源だが、幼さからの抜け出すには時間管理ができるようになることが必要。時間の概念が出てきて、俯瞰して、例えば、時間割のように自分の行動を時系列で考えることができてくる。計画、実行、検証のサイクルは言うは易し。全体像を見渡せる視野、洞察がないと計画は立てられない。決めた通りを実行することも難しく、検証はほぼ感想に終わる。それでも、計画する経験を積み、計画通りにいかないことから学ぶ。

一、 遊び、運動、習いごと、学習も皆同じ生き生きと
 野球やサッカーなど運動は瞬時の状況判断を養う。どこにパスを出すか、投げるか、補助線を見出すのと同じ、学習能力そのものだ。習字でも水泳でも卓球でも正しいフォームで継続すれば、だれでも上手くなる。継続はやり抜く力。やればできる、何とかなるといった肯定感も生まれる。何事にも無我夢中になって取り組み、没頭すれば集中力を鍛えられる。その中で上手くいかないこともあり、失敗、挫折も経験する。しかし、「そこからどうするか」から学習が始まる。成績や勝敗などは二の次、学習も運動も習い事もすべて、持って生まれた能力を伸ばすため。

一、 姿勢が悪ければ集中が続かない
 正しい姿勢とは自分が集中している姿勢のこと。何の緊張もなく、リラックスして、心身が解放され、対象に正面から向き合い、自分と対象が一体化した状態になったとき、いい姿勢になっている。他者が見て気持ちがいい、立派な姿勢は外からの評価であり、見た目だけのこと。成績がいいとか、勝負に勝ったとか、結果を残したからではなく、ただ、そのものに集中できているとき、自分が嬉しくなり、楽しくなる。自分の全神経が生き生きとしているときこそ、いい姿勢なのだ。

一、 人に会ったら挨拶をする
 挨拶はコミュケーションの第一歩、意思や考えの疎通を図る相手への確認でもある。「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」「ありがとう」「いただきます」「お疲れ様」、そう多くはない決まり文句だが、言い方・伝え方一つでいかようにも受け取れる。相手にどう伝わるかを考えることで、他者性がはぐくまれる。学習、仕事、自分事に専心したいなら、相手に不快感、不愉快を与えない挨拶をする。私はあなたたちを尊重しますという姿勢、お互いの自由、時間を保障しましょうという気持ち。この意思表示が挨拶だ。仏頂面、渋面、不機嫌な挨拶をすると無駄な神経と時間を費やすことになる。

一、 乱暴な言葉、粗野な言葉は心を乱す
 言葉遣いは、生活水準、文化水準を示す。乱暴な言葉、暴力的な言葉、汚い言葉を発するのは、そういった環境にいるということ。「死ね」と躊躇なく平気で言えるかどうかには一線がある。その一線を越えると、言葉遣いに気を付けよう程度の注意ではなかなか戻れない。なぜ、学ぶのかといえば、自分がよりよくなるため。それと同じように、発した言葉が自分をよりよくするかどうか、自分の気持ちに正直に向き合い、感じるしかない。乱暴な言葉、粗野な言葉を発する環境から抜け出すかどうかは自分次第、抜け出したいと本気で想ったとき、学び始める。

一、 おわったら、片付ける
一、 ゴミは見つけた人が拾う
 整理整頓。集中を妨げるものは遠ざけ、自分が集中でき、楽しさや嬉しさが湧き出るような身の周りにするということ。頻度、重要度で近くに置くか遠ざけるかを判断する。ぼんやりとして頭を空っぽにしたり、趣味を楽しんだりすることもできるように整理しておく。思いついたときにすぐに必要なものを出すには仕舞い方が大事、時間を無駄にしないための自分の空間をつくる、これが整理整頓。“ゴミは見つけた人は拾う”は「掃除をしましょう」といった言葉を不要にして、空間をつくる人なら当たり前のこととしたい。

西郡学習道場代表 西郡文啓