西郡コラム 『私の子とは思えない』

『私の子とは思えない』 2022年11月

 卒業を待たずに道場を辞めた保護者(母親)から、私と会いたいという連絡があった。働いている方で、午前中、都内で会えないかということだった。客入れ前の講演会の会場ロビーでお会いした。挨拶もそこそこに「あのときは大変、失礼しました。先生のおっしゃることを信じきれませんでした。入試も間近に迫っていたときに、急に辞めました。一度、お会いして、お世話になったお礼と息子も中学に合格して、私立中学校に通っていることをご報告したいと思い、お時間をいただきました。おっしゃっていたように、息子も変わり、たくましくなりました。」退塾前の険しい顔つきは消え、穏やかな表情で、一気に話されてお帰りになった。
 中学受験をしたいというので、花まる学習会から学習道場に4年生時に移り、5年生から道場の受験科で本格的に中学受験の学習に取り組んだ。彼の成長の度合、学習への取り組み方、生活態度などから、地元の公立中学に通わせられない、高校受験を避けたいという思いで、母親が中学受験を選択して、彼と家族を中学受験へと導いた。本人も漠然と受験する気になっていた。
 彼は中学受験に向いている子どもではなかった。言いたいことがあっても言葉が出ないで口ごもる。語順が拙く、片言のしゃべり方になってしまう。中学受験の学習は知識を得ること、習うことから始まり、講義形式の授業が多くなる。言語面の幼さが残る彼には講師の話す言葉をなかなか理解できず、集中に欠けた授業態度になってしまう。習ったことを再現する、定着させる復習が宿題になるのだが、習ったことが彼のなかに入っていないので再現できず、宿題がわかりません、できませんになってしまう。
 身体の成長も中学受験をする段階ではなかった。座っていられず、小刻みに動く。それは字を書く手の動きにもあらわれていて、彼の書く字はバランスが悪く、大きさが一定ではない。手がスムーズに動かないので手に力が入りすぎて、スラスラ書けない。手を動かす速さが脳を刺激する。計算も遅い。漢字も写すだけで頭に残らない。毎回の漢字テストも練習したという割には正確に書けない。やっても時間がかかる、成果は出ない、意欲もなくなり、集中力に欠ける。真面目に向き合えず、手遊びをやったり、ほかのことをぼんやり考えたりしていた。
 入塾以来、何度も母親と相談してきた。「サボテン」や音読など、決まっていることを毎日やれない、やらない。親が言わないと机に向かわない。宿題ができない。彼の学習の取り組みや生活態度がいい加減で、仕事をテキパキとしている母親からすれば、理解できず、許せなかった。中学受験は無理、受験をやめる。公立中学へ行かせられない、内申は出ない。中学受験をする、しないで揺れ、そのたびに相談した。
 6年生になり模試を受けても彼の成績はよくなかった。行きたい学校に到底届かない。受験情報は母親を煽り、息子の成長より、彼の劣ってるところに目が行き、彼の学習や行い、すべてを否定的な目で見てしまう。6年生にもなると子どものほうも体の成長とともに母親から言われるままにはならず、口答え、反抗するようになった。面談中、子どもが反抗する話になると母親もエキサイトして「私の子とは思えない」という言葉が吐き捨てるように出てくる。
 小学生で中学受験には向く子は少ない、彼のようにできない、わからない、ここから中学受験が始まる。発達が早いか遅いかの違いで、能力がないわけではない。心身が成長して、訓練を積み重ねれば、だれでもよくなる。日々の学習、習慣で彼らは確実に変わっていく、成長する。行きたい、行かせたい中学校が見つかれば目標は持てる。自分で何とかするしかないという意識は芽生える。習ったからといってすぐにはできない。すぐには変わらない。「長い目で見てください。日々の積み重ねです」と保護者には話している。彼自身は確実に成長している。彼そのものを見てください。母親が彼の成長を認めてくれるかどうか。
 中学受験をやめて、高校受験に向かってもいい。彼がいま、行っている学習は、これからの学習生活の基礎になっていると確信している。私たちの指導力不足に対する訴えはしっかりとお受けする。彼は確実に成長している。そこを認めてあげてほしい、と母親に強く訴えた。
 入試が迫ってくる緊迫と孤独が当事者意識をもたらし、11月から1月にかけて急速に彼らを成長させる。学力も伸びる。直前に多くの受験生は変わる。彼もこれから正念場を迎える。乗り越えてくれる。彼が行く中学はある、と母親に何度も話した。しかし、受験3か月前になって、学習道場を辞められた。

西郡学習道場代表 西郡文啓