高濱コラム 『引き込まれる幸せ』

『引き込まれる幸せ』2024年7・8月

 スタンフォード大学発の通信制高校を立ち上げ、世界一の評価を得た星友啓氏と、この一年ほどで三回ほどお話する機会を得ました。一度目は、教育界で頑張っている有名な方々との秘密の飲み会。二度目はAERA with Kidsでゲストとしてお招きしての対談。三度目は大きなイベントで彼がモデレーターを務めるセッションの、四者での対論。そのニ度目でのことです。
 最初にお会いしたときから、偉ぶらないどころか相当なズッコケ感を醸し出しながら私をパイセンと呼び、語る人柄とユーモアセンス、東大は出たけれどほとんどを博打とバイトに費やして就活すらまともにやらず落伍してしまい、逃げるように渡米したという青春の挫折のあり方への(三浪四留人間としての)強い共感、一方で口から出てくる言葉の宝石感、こちらの頭を活性化してくれるパワーに、元々魅了されてはいたのです。そのうえでの、いわゆるサシでの対話なので楽しみにしていました。
 そして対談は、誌面には載りきれないほどの学びに溢れていました。一番感じたのは、私が、現場一筋叩き上げで、授業やサマースクールで子どもたちと触れ合いながら日々キャッチした発見や思いを我流で紡いでコラムにしてきたのに対し、彼はスタンフォードの博士になるべく論文レベルの知識を豊富に学んでいるので、アカデミックな視点をくれる点です。
 たとえば私が、人間は「何かできること」で賞をもらったり褒められたりすることが嬉しいけれど、一番嬉しいのは「(無条件で)好き」と言ってもらえることですよね、と言うと星氏は「prizing(存在が尊いとみなすこと)ですね」と言下に応える。私が「自分の心を俯瞰する地点から眺める目を持つことが大事」と言うと、即座に「distancing(いったん外から見つめること)ですね」と反応する、というような感じでずっと続きました。
 そのなかで一つおもしろかったのが「やる気のエクササイズ」というものです。私が「人生で行き詰まっている人は、『自分の心を見る』ということができなくて何かと決められない」と言ったときに教えてくれたことです。心療内科の分野で使われているらしいのですが、心が落ち込んでやる気が出ないというような人に行う対処法で、まずは「飲み物があるんですけど、水にします? ジュースにします?」と軽く二択から決めてもらう。だんだん三つ四つと選択肢が増えていき、最後は無数の可能性のある「何をしたい?」と聞いていく、というものです。つまり、心をコントロールされたような動けない状態から、自由な意思を示せるようになるカギが、「決める」という行為だということなのでしょう。
 このことはその後、私なりに考えを膨らませるテーマになりました。そのような治療法はエビデンスベースの医学の知見だし、間違いなく意義はある。しかし教育の現場に立つ者として考えるべきは、そもそも治療を受ける必要のないくらい自己回復力があり心の安定した人間を育てることだろう。その要所はどこか。
 まず「決める」ということについてです。
 そもそも普段から講演会で「自分で決めて、夢中で、集中して、反復したこと」こそが能力として伸びるポイントだと語ってきました。その第一歩の「決める力」についてもあちこちで書いたり言ったりしてきました。どうすれば決められる人になれるか。それは自由遊びにある。特に自由な外遊びには先の要件のすべてが入っている。入っているどころか、子どもの外遊びを観察すると、活動している間中そのような状態を眠くなるくらい疲れるまで繰り返している。「これをしなさい」とやらされるのではなく、決めてやり込むことを基本行動として満喫すること、すなわち「子どもらしく遊び込む時間」こそが、その後をよく生きていくうえで貴重なのだということです。
 一方で、それができない大人のありようも明確です。彼らは外付けの価値観、他人から与えられた価値観(点数、順位、偏差値、ランキング、ブランド、給与・年収等々)に囚われてしまっています。ただ心のワクワクに従って生きればよいのに、人目を気にし、まわりと自分を比較し、やらされ感で行動し、残念なコンプレックスで素直な目を歪められて生きています。
 子どもたちにはそうなってほしくない。自分の心の声をいつもまっすぐに受け取って決められる人、行動できる人になってほしいですよね。
 さて、ここまで書いたとき、たまたまプッシュ通知で、あるYouTube動画が流れてきました。それは元ザ・ブルーハーツの甲本ヒロトさんが対談のなかで夢について語っている場面でした。曰く「夢を持てと多くの人が言っているが、夢って取りつかれるものなのではないのか」という趣旨のことです。つまり「何か夢を持つのは大事そうだから、ちゃんと持たないとね」とか「持たなきゃいけないんだけれど、決めきれないんだ」というものではなく、「気づいたら引き込まれ夢中になってしまっているもの」なのだということです。極めて重要なことを語っていると感じました。
 彼が話していたのは夢についてですが、ここまで書いてきた「決める」ということも、その現実を観察するに、「ちゃんと決めなきゃ」とメタ認知した時点でもう間違っているというか、行動しているうちに「あれ、いつの間にか引き込まれていた」というものだろうということです。
 私の卑近な例としてもこういうことがあります。日本棋院の理事をやるくらい、囲碁が文化的にも素晴らしいうえに教育という面でもすごい可能性に満ちていると信じているのですが、そういう表面的認識とは関係なく、時間が空いたときに数分やる囲碁AIのサイトでの九路盤のゲームに、毎回毎回絶対に夢中になるのです。その一ゲームをやったからどういう見返りや報酬があるわけではないし、それどころかそんなひとときを過ごさなくても人生何も変わらない。なのに取りつかれている。みなさんも、特に絶対観ようという気持ちでもなく観始めたバレーボールの国際試合に、いつの間にか引き込まれていたということはないでしょうか。こういう時間というか過ごし方のカードを持つことには価値があるなと思います。
 逆に言うと、先述の病んだ大人はすぐに、「他人がボールを打ったり拾ったりするのを観たから何(いくら・得など)になるというんだ」という功利性に蝕まれた考えをしてしまいます。この視点に憑依されると人生のほとんどがつまらなくて無価値なものになってしまうので注意しなければなりません。
 そして、思うのは、いつの間にか素直に引き込まれる人たちは幸せだし、それはご両親に感謝というか「心の型」がよく育っているのだろうと思っています。幼児期は誰でも夢中を繰り返しているのですが、学齢期近辺から徐々に「やらねばならないもの」「親や先生に褒められるもの」に価値観を占領されはじめ心を見失っていく人も多いものです。それなのに大人になっても「あ、いつの間にか引き込まれていた」という時間を楽しめる人は、きっと子ども時代に存分に遊ぶ時間を持てた人なのだと信じます。
 遊んで遊んで遊び込んでこそ、迷いなく自分の心に従って生き、いろいろなものを堪能することができる人になれると思います。いよいよ夏休み。午前中の「習慣が大事」な計算や書写のような基礎学習は日課としつつ、残りの明るい時間は汗をかきまくり走りまわり遊び込む夏休みでありますように。   

花まる学習会代表 高濱正伸