西郡コラム 『一か月前』

『一か月前』 2025年1月

 私立高校の一般入試は3教科受験で1月中旬から始まり、それから1か月ほど遅れて5教科受験の公立高校一般入試がある。以前、私が中学生を教えていた頃、数学を得意にしている中学3年生の男子生徒がいた。模試の結果も数学は高いレベルで安定していて、過去問題をやっても合格水準をゆうにこえる。数学には自信をもって意欲的に取り組んでいた。
 3教科で受験した私立学校の入試結果は、数学で高得点を取ったこともあって余裕で合格点を超えた。第一志望の県立高校入試まで約1か月、これまで後回しにして手をつけていなかった理科、社会の2教科の学習を最優先にして多くの時間を割いた。数学ほど得意とはいえない国語も英語も、作文やリスニングなど公立入試対策の学習は続けた。私立入試の数学は難問が多く、公立の入試問題より圧倒的に難しい。数学は私立入試対策で学習した貯金で県立高校の入試問題をカバーできると見なし、ほとんど勉強しなかった。
 最後、第一希望の県立高校の入試に臨んだ。入試を終え、その足で試験が終わったことの挨拶と報告のため、私たちのところに寄ってくれた。彼に最後の入試を終えた解放感はなく、重苦しい様子で挨拶より先に「数学、やらかしたかもしれない。まいった。落ちたかもしれない」と弱気な言葉を続けた。一体、どうしたというのか。数学の2番目の問題で、これはできると思った瞬間、固有名詞の単語が出てこないような“度忘れ”状態になって解法が浮かばない。頭が真っ白になり、こんなはずではないとあせって焦点が定まらず、動揺してしまい、手ごたえがなかった。
 合格発表まで、ぼう然とし後悔の日々で、落ち込んでいた。が、結果は合格だった。ほかの教科がそう悪い点ではなく、数学も期待値が高かっただけで不合格になるほど最悪の出来ではなかった。もともと、内申点も高かったので、不合格の事態は避けられた。数学は大丈夫という彼の自信にゆだね、注意を怠ったことは私たちの落ち度だ。合格したことで、こちらも救われ、過失が教訓になった。
 合否に直結する最も大事な、入試前の1か月をどう過ごすか。差し迫る入試は、学習を自分事として取り組ませるから、効率のよい追い込みの学習となり、学力を引き上げる。中学受験、高校受験は当事者意識を作る。毎日、自分事として集中して直前まで学習するのは試験に対応する学習感覚を磨くため、得意と思っている教科も長く放置すれば感覚は鈍るという教えになった。
 わかっていても、打ち込めない重圧がある。落ちたらどうしよう、もうだめかもしれない。1か月前、不合格かもしれないという受験の重圧で、学習が手につかない状態になる。試験の直前にやった、例えば、直前に読んだ国語の文章が入試問題として出題されたということもあることはあるが、直前まで学習するのは問題を予想するためではなく、感覚を鈍らせないため。国語の文章を読む、読解するのは文章を読む感覚を試験場に持っていくためだ。何も手につかない、どれをやっていいかわからない生徒には「直前まで国語、英語の文章を読んだり、数学の問題を解いたり、理科、社会の用語を確認したりするのは、これまで培った学習感覚を試験場に持っていくためです。迷ったら、決めた目の前の一問に集中しなさい」と教えている。直前までやり続けることで気力は前向きになり、ヴィヴィッドな頭と体で試験に臨める。
 試験前、最大の難敵は体調を崩すことだ。最も寒くなるこの季節は、インフルエンザ等の疾患の流行や受験の重圧で体調を崩す。健全な状態を維持して入試前の1か月を過ごす生徒は少ない。手洗い、うがい、十分な睡眠や栄養をとるなど細心の注意をはらっても、だれもが何かしら患う。なぜ、罹ってしまった。なぜ、この大事なときに。運が悪い、もうだめだ、と後ろ向きになるのは二次災害。これは食い止めたい。体調を崩すこともある。当たり前のこと、後悔しても仕方がない。思い切って休む、治療に専念するなどできることをして、体調を戻すことに最善をつくす。気力が失せている子どもを支えるのは私たち大人で、大人がうろたえないことだ。高熱で意識が朦朧として体力も消耗するが、熱が下がったとたん、重荷から解放されて、むしろ体が軽くなり、頭がすっきりして集中して問題に取り組めたということはよくある。これしきのことで受験をあきらめるわけにはいかない。最後に残る気力で受験生は体調不良を乗り越え、試験に挑む。
 入試1か月前、学力だけでなく、多くの試練を受ける。これらを経験して、乗り切って子どもたちは成長する。

西郡学習道場代表 西郡文啓