『自己評価 子ども達が幸せをつかむために大切なこと②』2004年12月号
「どうせ僕じゃない。みんな母さんがやってくれてたんだ。」―この言葉が私の記憶に焼きつき離れませんでした。
進学校に通っている同級生が皆受験勉強をしている中、高校三年生の彼は、何に対してもやる気を持てず、勉強もしたくない、大学にも興味がもてない状態にあ る。このままだと学校にも行かなくなるのではないか。どうしたらいいか。と両親が相談に見えました。上の言葉は、父親が教えてくれた彼の言葉です。本人が自信を持っているはずの理科の作品展のことを思い出させようとした父親に、彼はそういったのです。聞けば彼は小中学校と、陽のあたる場所を歩いていたようなのです。何も問題はないはずでした。しかし高校ではじめて勉強という壁にぶち当たったきり、そのまま無気力な状態になってしまいました。このような過去を持つ子ども達は珍しくありません。私がこの数年で出会っただけでも何人もいます。
私は、問題はこのことばの中にあると感じました。彼は、自分の人生を生きてはいないのです。生まれてからずっと、両親の愛情のもと守られてきた―守られすぎた環境だったのかもしれません―彼は、自分の足で歩いた実感がなかったのです。裸足で歩く地面は、草原や整備された道だけでなく、泥濘やでこぼこ道、時にはガラスの破片が落ちているかもしれません。それでも自分の足で乗り越えるからこそ、強くもなれるし勇気も持てる。上手く回り道を見つける力だって養えるのです。彼はきっと、暖かいブーツの中でしか生きてこられなかった。
たったひとつでも、自分の力でやった、克服できた、または誇れるものを持っていれば幸せになれるのに。結局、彼の人生と思えない。
自己評価。自分で評価する自分は、ウソをつけません。そして一度信じ込んでしまうと、なかなかそれを変えることは難しい。人は叱られ続けることで自己評価を下げてしまいますが、逆に高い自己評価を持てることほど強いことはないのです。「自分にはこれが出来る」「褒めてもらった」という記憶はいざというときに負けない力となるのです。
つい先日の作文コンテストで、テーマも決まらずふざけてまじめに書こうとしない様子の男の子を呼び出して、「君の描く絵を先生は本当にすごいと思ったんだよ」と伝えました。そのことを書けといったわけではありません。彼は急に顔つきが変わり、「僕はお母さんに読み聞かせしてもらったことを書こうと思う」と素晴らしい作品を書いてくれました。どの子にもオリジナルな力が備わっている。それを自分で知る機会は意外と多くないのかもしれません。私は一人でもたくさんの子に、それを伝えてあげることが使命だと思っています。
*追記*
私自身、アメリカで出会った友人に(彼女とは教会の日曜学校で三ヶ月ほど一緒に子ども達にアートを教えていました)、「子ども達はあなたのことが大好きよ。あなたは絶対に子ども達と触れ合う仕事をすべき。」と強く言われたからこそ、今があるのです。私は彼女に感謝しています。自分がやりたいことと、自分の強みが一致するかどうかわからない。自分が何をすべきか岐路に立っていた当時の私でしたが、帰国してすぐに花まると出合うことになったのですから。