高濱コラム 2004年 2月号

正月早々、お年玉をもらったような体験をしました。お兄さん塾スクールFCの冬期講習でのできごと。4年軍団が、授業終了後に隣の神社でサッカーをやっているのは知っていたのですが、見てくれる先生が今日はいないので、来てくださいと言う。山ほどたまった業務を理由に断ろうとしたのですが、せがみ方が上手で、連れ出されてしまいました。そして、いくつもの発見をしました。

まず一点は創造性。でこぼこ地面はもちろん、ちゃんとしたゴールなどないので、生えている木の幹を適当に選んでゴールポストにする。あっちとこっちでは幅も違えば凹凸面でもかなりの差があるのに、誰も文句を言わない。ジャンケンで手に入れたゴールが不利なものでも素直に受け入れる。長方形とは程遠いフィールド、曲がったゴールでも、そういう新しいゲームとして皆の頭に創り上げられ、楽しみきってしまう。いつかまた詳しく書こうと思っているのですが、研究の結果「もてる人」のキーワードは創造性で、創造力こそ子供につけさせたい力だと確信したばかりだったこともあり、指導されるまでもなく見事に発揮されている様子に感動しました。

二点目は、思いやり。そこには4年生だけではなく、お迎えのお母様方と一緒に来た5歳の弟君も二人いたのですが、誰言うともなく入れてあげ、ボールに触る機会が少ない彼らに、プレースキックなどで上手に役割を回してあげている。どこかに出て行ってしまおうとすると、注意するのではなく手をまっすぐに差し伸べて、「お手々つなご!」と、うまく引き戻す。年少者の面倒を上手に見て可愛がる姿に、異学年が混じった遊びの素晴らしさを噛みしめました。ちなみに手を出してあげた女の子は一人っ子で、まさに彼女のためにも、貴重な経験の時だなあと思って見守りました。

三つ目は、遊びの核心を目の当たりにしたこと。ある日のゲームが5-0になった瞬間、皆がまるで申し合わせたように、異口同音に「チーム変えしようか」と言いだしました。

あうんの呼吸。そこにあるのは、「勝つことが目的ではない。ゲームを楽しむことが大事なのだ。つまらなくなったら1秒たりとも続けたくない」ともいうべき価値観です。子どもは「遊びの天才」と言われますが、まさにこの「つまらなければ、即、ルールごと変える」実行力は大人になると失いがちな人生の極意かもしれません。「駄目だ、駄目だ」と愚痴ばかり言ったり、人の悪口を言って自分を支えるような人にはなってほしくないものです。

初日のスーツ・革靴の「見張り役」としてのいでたちから、二日目には運動靴、三日目にはウインドブレーカーの上下に変わるほど、引き込まれた私ですが、思えば、以前は季節の講習会と言えば、昼休みは野球だサッカーだ氷鬼だカンケリだと一緒に遊んだものです。長年の経験で、その価値を言語として分析し評価できるようになった現在ですが、昔はもっとずっと直感的に「この空間には、キラキラしたすごく重要なものがある」と感じていたことを覚えています。

「外遊び教」の忠実なる宣教師として、今年は原点に戻って、雪国スクールやサマースクールでも子どもたちの輝きの一番近い場所で、共に遊びきりたいなと誓わせてくれた、神社サッカーでした。

花まる学習会代表 高濱正伸