松島コラム 『親子の時間』

『親子の時間』 2024年2月

 元日の一家団欒のなか、多くの方々が一瞬のうちに大切な家族や家を失い、平穏な日常を奪われました。被害にあわれたみなさまには心よりお見舞いを申し上げます。現地へのさまざまな支援のほかに、いま私たちができることは、何か起きたときを想定した、安全を守るための準備だと思います。スクールFCの防災への取り組みは、改めてお伝えする予定です。
 ひさしぶりに父のことを書きたいと思います。
戦時中、東京高等商船学校(現東京海洋大学)に進学した父は、係留練習船「明治丸」で日々厳しい訓練を受けていました。有事には海軍予備隊として戦場に出向くわけですが、幸いにもその前に終戦を迎えました。その後船乗りにはならず、海事で日常的に使っていた英語の教師になる道を選びました。ちなみにこの時代、政府や軍が英語の使用を禁止したという話がありますが、実際には「敵国語である英語は使わない」という動きは、ナショナリズムから起きた民衆レベルの運動でした。
 剣道の有段者であり、柔道や相撲も得意といった武道派の父は、休み時間になると竹刀を持って校内の取り締まりをする先生として有名だったようです。いまでも帰省すると教え子だというお年寄りから、「あんたのお父さんは本当におっかなかったんだ(怖かったんだ)」と言われます。当然そういった父のことをおもしろくないと思っていた生徒もいたでしょう。小学生のころ父と一緒にお風呂に入っていたとき、お尻に野球ボールくらいのアザを見つけました。「どうしたの?」と聞くと、中学生に石が入った雪玉をぶつけられたというのです。「ひどいことをする中学生がいるんだなあ」と思いましたが、そういえばうちの車のドアやボンネットはでこぼこだらけでした。「先生ってたいへんな仕事なんだ」と子ども心に思ったのを覚えています。
 中学生の万引き、窃盗、喫煙、校内暴力などが地方でも問題になっていた時期でした。オイルショック以降、全国的に学校が荒れていたとき、当時の文部省はそれを押さえ込むために、体育会系の教員を大量に採用し、彼らを中心とした徹底した管理指導を行いました。「毅然とした態度で指導にあたれ」ということが、行き過ぎた体罰につながり、その反動で陰湿ないじめが広がったとも言われています。
 父は定年後、保護司として刑務所や少年院から出てきた人たちを自宅に呼んで就職口の相談にのっていました。現役時代、日曜日も部活の遠征でほとんど家にいなかったような生活でしたから、定年後はゆっくりするのかと思いきや、夜は自宅で英語塾を開いていました。
 一方私は反抗期が終わるか終わらないかのうちに上京してしまいましたから、父とじっくり話をした記憶がありません。その後、塾講師として忙しい日々を送るようになり、帰省することも少なくなりました。そんななか、「おまえ数学ができるなら、ちょっと手伝ってくれないか」と父に頼まれ、週末だけ自宅の塾を手伝う機会がありました。塾といっても寺子屋のようなものですから、一学年5人くらいずつで、学力もバラバラです。教員の子どもで親の授業を見たことがある人は少ないと思いますが、私も父の授業を見たのはこれが初めてでした。「母親に苦労ばかりかけているんだから、高校に行って手に職をつけて早く安心させてやれ。だから宿題はちゃんとやってこい!」そう言われて頭をかく男の子の表情はどこか嬉しそうでした。授業内容以外、余計なことはほとんど話さない。たまに集中できていない子のおでこをコツンとやって厳しさを示す。帰り際、一人ひとりと他愛もない話をして送り出す。少しだけ父のことがわかったような気がしました。子どものころからしつけには厳格な人でした。特に感謝の気持ちを忘れないこと、礼儀を重んじることなど口うるさく言われました。互いの信念や哲学を語り合うことはありませんでしたが、父がなにを大切に生きていたのか、改めて振り返ると、その答えを自分のなかに見つけることができます。
 親子で過ごせる時間は短いです。いつかは別れのときがやって来ます。それまでたくさんの思い出をつくってあげてほしいと願っています。

スクールFC代表 松島伸浩